無責任な楽観主義

2007-06-06 00:00



本日の内容は5月8日の続きである。(一応放り出していたことを覚えてはいるのだ)


さて、「幸福幻想主義」と「前向きな姿勢」を分けるものはなにか?というところで前回はおしまい。


答えは自分なりにもっていたのだが、そのものずばりのことが書いてある本を見つけた。「ビジョナリーカンパニー2」で取り上げられている「ストックデールの逆説」である。





下調べをしようと、わたしは『愛と戦争』を読んだ。ストックデール夫妻が交互に執筆して、八年間の体験を記録した本である。


本を読み進めると、気持ちが暗くなっていった。やりきれなくなるほど暗い本なのだ。いつ終わるともしれない苦難が続き、収容所側は残忍だ。やがて、少しずつみえてくるものがあった。「自分はこうして、暖かく快適な研究室に坐って、美しいスタンフォードのキャンパスを眺めながら、美しい士曜日の午後をすごしている。この本を読んで気分が暗くなっているが、自分は結末を知っているのだ。収容所から釈放され、家族との再開を果たし、アメリカの英雄になり、後半生をこの美しいキャンパスですごし、哲学を研究している。それを知っているのに気分が暗くなるのなら、収容所に放り込まれ、結末がどうなるかも知らなかった本人は、いったいどのようにして苦境に対処したのだろうか」


わたしの質問に、ストックデールはこう答えた。「わたしは結末について確信を失うことはなかった。ここから出られるだけでなく、最後にはかならず勝利を収めて、この経験を人生の決定的な出来事にし、あれほど貴重な体験はなかったと言えるようにすると」


(中略)


百メートルほど歩いたころ、わたしはようやく次の質問をした。「耐えられなかったのは、どういう人ですか」


「それは簡単に答えられる。楽観主義者だ」


「楽観主義者ですか。意味が理解できないのですが」。わたしは頭が混乱した。百メートル前に聞いた話とまったく違うではないか。


「楽観主義者だ。そう、クリスマスまでには出られると孝える人たちだ。クリスマスが近づき、終わる。そうすると、復活祭までには出られると考える。そして復活祭が近づき、終わる。つぎは感謝祭、そしてつぎはまたクリスマス。失望が重なって死んでいく」


ふたたび長い沈黙があり、長い距離を歩いた。そしてストックデールはわたしに顔を向け、こう言った。「これはきわめて重要な教訓だ。最後にはかならず勝つという確信、これを失ってはいけない。だがこの確信と、それがどんなものであれ、自分がおかれている現実のなかでもっとも厳しい事実を直視する規律とを混同してはいけない」



希望を持ち続けることと、現実をありのままに受けとめることはワンセットでなければならない。これは信じられないほど見過ごされている点だ。たいていの場合「前向きになること」「楽観的に考えること」「後ろ向き思考はだめだ」という点が強調される。しかし現実を踏まえなければ、それは帝国陸軍の「必勝の信念」でありテロをおこしたオウム真理教の信者となんらかわることはない。


しかし


今回この「ストックデールの逆説」という言葉を知り、検索してみると「??」といいたくなるような文章にいくつも出くわす。どうもこのエピソードを


「悲惨な捕虜生活であっても希望を持ち続けることが大事だ」


とだけとらえている人がとても多いように思うのだ。↑で長めに引用したのはそれを強調したいがためである。捕虜となっている間に妻と交わした書簡は「暗いけど、希望はすてていないよ(はーと)」という類のものではない。読んでいる人間をも暗くさせるようなものだ。


それでありながら希望-ではない-確信を持ち続けるということはどうしたら可能なのだろう。この本はそれには答えてくれない。理性を働かせ合理的に考えたら希望も何ももてないような状況におかれ、その事実に目をつぶることなく確信を持ち続ける。これはどうしたら可能なのか。考えることはつきない。


ちなみにこの本を読み、東条英機の「必勝の信念」とチャーチルの有名な演説を隔てるものについてひとつの回答を得たような気がする。それについては本家の「失敗の本質の一部」に書くことにしよう。裏づけとかしらべなくちゃいけないしね。