映画評を読みながら考える

2008-09-09 00:00


m@stervisionという映画評サイトがある。長らく更新が停止されていたが、最近復活した。掲示板を読むと、この映画評サイトのファンは多い。私もその一人だ。ただ


「ではなぜこの映画評をよいと思うのか?」


という問いには明確な答えがない。たとえば、Star Wars EP2についてはこう書かれている。


ある。以前にもまして冒険映画や史劇や西部劇の古臭いクリシェを意図的に多用した宇宙大活劇。2時間22分の目のご馳走。「エピソード1」に疑問符をつけた人にも自信を持ってお勧めできる。てゆーか、観なきゃバカだ。 

m @ s t e r v i s i o n | archives 2002c


この映画に対する私の評価は文句なしのー1800円。金返せである。


これほどまでに評価が異なりながら、なぜ「なるほど。こういう見方もあるのか」と氏の映画評を読むことができるのか?昨日ある文章を読んでいて、その回答の一部が見えたような気がした。


そして生半可でない理解というのは、結局「おれにはおまえが理解できないよ」ということを受け入れることなのです。「理解できないこと」というのを肯定し、受け入れる。そしてそれを表明し、そのことを貫き通すことなのです。

理解することではなく、理解しないことが大切なのです - ハックルベリーに会いに行く


氏の映画評では、自分がどのような観点から、どうしてそのような評価を下したかがかかれている。その意見の表明は明快であり、決して生半可に「○○な人にはいいんじゃない(俺はつまんないと思ったけど)」とか書かない。それゆえ評価が180度反対であっても「なるほど」と読むことができるのだろう。


書きたい放題書いているようにみえながら、常に自分を客観視し、自分の映画評を読む人、という視点を忘れない。それゆえ多くの人に読まれ、愛される映画評になるのだろうな。


その反対の映画評は、、特に職業として映画評を書いていると思しき人に多く見受けられるのは皮肉なことだ。