「痛い」ことをしないために

2008-09-30 00:00


そうするためには、強くなるしかない。自分を捨てるには、強くなるしかないのだ。だから、強い人間になりたいものだと思う。説教をしようが同情しようが憐れもうが、そこで自分が気持ち良くなろうとはしていないから、痛くはならない、本当の意味で自分を捨てられた、強い人間に。

説教をたれるから痛いのではない - ハックルベリーに会いに行く


この文章を読んで、荘子に書いてある言葉を思い出す。「万物斉同」であるとか、なんとか。己と彼の区別はどこにあるのか。であれば、己というイメージにすがり、彼を見下すことにより自分が優越感を得ようとする行為は「痛い」ものではないのか。


この「痛い」という言葉は昨今よくつかわれるがその意味は私にとって明確ではない。しかし↑の文章を起点に考えれば、


「小人が“あいつはあんなに可哀そうなやつだ。俺はそんなのとは違う”と叫んでいるのを、少し離れたところから見ている気持ち」


と定義することもできそうだ。


我を捨てるとはよく聞く言葉ではあるが、そこに「強さ」が必要である、と説く人は少ない。↑の文章を読んでいて、この文を思い出した。


本当の謙虚さは、立場をわきまえることでもなく、身分にふさわしいことをすることでもなく、立場を乗り越えて人間の価値を対等に認める「心の習慣」だと思います。習慣である以上、言葉によって教えられません。残念ですが、傷つけられたり恐怖に怯えたり、苦難に遭ったりしないと、なかなか心に宿ってくれない習慣です。 


偉くない人が謙虚に見えることは、偉い人が傲慢に見えることと、そう変わりません。偉くても弱い人と対等につき合える人こそ、謙虚な人だと思います。弱くても偉い人に媚びない人こそ、謙虚な人だと思います。 


謙虚の心を持つには、かなりの人生経験を通じて勝ち取った自信を持つことが必要です。この自信は地位、金銭などの成功によってもたらされるものではなく、その人に内在するものが成熟することによってもたらす絶対的なものです。

「謙虚」を説く人の「不謙虚」:NBonline(日経ビジネス オンライン)


↑の文章でいっている「かなりの人生経験を通じて勝ち取った自信」が最初の文章で言っているところの「強さ」ということになるのだろうか。


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これは幾多の失敗を経て悟ったことだが、考え方がしっかりとしているのに、とても腰が低い。こういう人には注意をしなければならない。相手の肩書きや名前を知らないで会話しているときはなおさらだ。



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話はまた飛ぶが、ここまで述べてきたような判断基準では「とても痛い人」にあたるが、世の中では偉人、というか有名人になっている人はたくさんいる、というかその方が多いのではなかろうか。


今ぱっと頭に思いつくのは第2次大戦中の英国の将軍、モントゴメリーである。うろ覚えでかくが、アイゼンハワーが彼についてこう述べたという。


「英国で有名学校を卒業していない人間は、生涯そのことをひけめにかんじ、なんとか自分がひとかどの人物であることを示そうとする」


そのために、自分がいかに有能な人間であるか、他人がいかに無能であるかを力説する。こうした態度はその人の真の目的ー自分が偉大な人間であることを示すーには何の役にも立たないどころか、逆効果なのだが、それをせずにはいられない。


こうしたはたからみて「痛い」行為というのは、自尊心と虚栄心のアンバランスから生まれる。この自尊心というやつがまた難しいのだが、それについはまたいつか書くことがある、、かもしれない。