映画評:ウォーリー- WALL・E

2008-12-18 08:18

例によってネタのない日は本家から改変して転載。

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地球に「一台」だけ残されたロボットが、ひたすら地球上のゴミを片付け続ける。そんなある日、空から宇宙船が降りてくる。そして一台のロボットを残し飛び去っていくのだった。

”ロボット”の造形、そして演出がすばらしい。定型化している日本のそれと異なり、最初観たときは「なんだこれは」と思う。しかしその姿が、ストーリー進行とともに感情を持った”登場人物”と見えてくるのに驚く。しかも今回は「二人」ともほとんど言葉を発しないのだ。そして映画が終わる頃には、この映画の主題の一つが「二人」の愛であることに何の疑問も抱かなくなっている。そのすぐ前のシーンで、”主人公”が様々な部品の寄せ集めにすぎない事が示されているのに。
そして(これまたいつものことながら)Pixarの広大な背景の表現
にも驚かされる。実写もどきでも”アニメ”でもなく遠く広がる香料とした地球の風景。

しかし私にとってはどうしてもある点がひっかかる。以下ネタバレ含む。

何故地球に誰もいないかといえば、ある会社が「汚れた地球を飛び出し宇宙でバカンスを楽しんでください。その間に掃除しておきます」と請け負ったからだ。しかしその約束は果たされず、人類は700年以上にわたり宇宙をさまよっている。

宇宙船の中ではすべての世話をロボットがしてくれる。人間は自由に移動できる寝椅子に座り、目の前にあるディスプレイに向かって会話している。すぐそばに豪華なプールがあってもその存在にすら気がつかない。老若男女、すべて穏やかな笑顔を浮かべた肥満体だ。しかし(これは後で知った事だが)活動的な寿命は百数十年を超え、健康的な長寿社会でもある。(ちなみに、あの温和な顔をした肥満体の人間達はどうやって子供作るのだろう。そんな「動物的」な気力はいっさい残ってないように思えるのだが)

肥満して、目の前のディスプレイだけに向き合っている人間の姿。それは、いつでもどこでも携帯電話の画面だけに向き合っている今-2008年-の人間の劇画化された姿のように思えるのだ。健康を増進しましょう。ビットの泥沼につかりましょう。それを押し進めたのがこの宇宙船の乗客の姿ではないのか。

ぞっとするその「未来人」達は、地球に植物が戻った事を知り地球に帰ろうとする。そして荒廃した地球に降り立つのだが。

果たしてあの「人類」は本当に地球に戻るのだろうか?

それとも宇宙船内で「ディスプレイだけに向き合っている生活」を続けようとするのではないか?

どうしてもそこが気にかかる。私の見方がわるいのかもしれないが、その点については描かれていなかったように思うのだ。まだ観ぬ故郷に憧れる、という描写はあったけどね。”最初の一歩”を踏み出せば、あとは人類の遺伝子に組み込まれた情報によりすべては自動的に進んだということなのか。あるいはエンドクレジットで流れる「地球人復活のプロセス」の影にはそうした物語が無数に含まれている、ということなのだろうか。でもなあ、筋金入りの怠け者の私としては、人類がまたあのベッドに寝そべり始めるような気がしてしょうがないのだ。

などとあれこれ悩んでいるとどうしてもワンランク下げたくなる訳だ。ディズニー調ではない、もっとブラックな-そして人間の現実の姿に即した-エンディングもあり得たのではなかろうかとも思える。あるいはそれは見た人が頭の中で補ってください、ということなのか。

ちなみに小さなお友達達が結構見に来ていて、短編映画からウォーリー本編の最後まで時々笑い声やら歓声が劇場内に響いていた。子供は歓声をあげ、大人は何かを考える。これも見事な芸だよなあ。