映画評:レスラー

2009-06-25 07:16

ほえほえ、となっているときは本家から転載

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人には天職というものがあるようだ。それをやっているとき、その人は最も輝き、そして力を発揮する。

しかしその"天職"が必ずしも物質的、精神的幸せをもたらしてくれるとは限らない。そんなことを考えた。

80年代に活躍したレスラー。その業績がアナウンスと雑誌の表紙で語られた後いきなり"20 years later"という字幕が出る。プロレスは条件さえ整えば還暦まで続けられるが、それは決して楽だというわけではない。

ト レーラーハウスに一人住むかつての有名レスラー。スーパーで働きなんとか生計をたて、週末はレスラーとして活躍する。彼と微妙な関係にあるのが、こちら も"85年卒業か?"と揶揄されるストリッパー。二人とも体をはって闘っている。闘いの相手は観客。如何に観客を喜ばせ金を払わせるか。

しかし心臓発作を起こしたことから、そうした生活にも見切りをつけなくてはならない、と悟る。客相手にサラダを出し、疎遠になっていた娘との仲を修復しレスラーは引退したと告げて回る。しかし彼の"天職"はあくまでもレスラーなのだった。

私は高校時代プロレスファンだったが、この映画で初めて"レスラーの闘い"が理解できたような気がした。体を鍛え、技を磨くがそれは相手を倒すためではない。いや、相手はともに観客を喜ばせ るパートナー。その関係はお笑い芸人の相方に近い。であるから対戦相手が決まれば入念に打ち合わせをし、試合の後にはお互いの健闘を称え合う。その信頼関 係あってこそ観客が歓声をあげるすごい技を繰り出すことが可能となるのだ。

その世界では主人公は偉大な存在として仲間から賞賛を浴びる。彼が"落ち着こう"と目指した世界では本名をさらし、ポテトサラダを"多い""少ない"と言われるたび何度も盛りつけする。

彼が最後の試合で"俺の家族は観客だ"と叫ぶ。観客はそれに歓呼で答えるが、もちろんそんなことはない。お互いそれがわかっていながらも会場は熱気に包まれる。そここそが彼の居場所なのだ。

そうした姿をこの映画は余分な虚飾なしに淡々と描き続ける。その姿を見ている間

"この男は何歳だ?俺と同じ歳か?"

と考え続ける。

あと、本職レスラー達の"名優ぶり"にも感嘆しました。彼の国ではあれくらいの演技力がないととても勤まらない職業なのだろう。

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この映画にでてくるレスラーは現職、あるいは元レスラーなのだそうな。その演技のナチュラルなこと。日本人レスラーにはとてもまねできまい。

この年になると思うのだ。プロレスという肉体芸は体を鍛えていないととてもできるものではない、と。高校生のころはブレンバスターとかあれこれやっていたけどね。今なら受け身をとっただけで寝込みそうだ。

誰にでも天職があるとすれば、私にもあることになる。それは何なのか。薄々気がついてはいるが、知らないふりをしている。私はトレーラーハウスに住むひとり者ではない。