リーダーとビジョナリーを混同する事

2009-08-09 20:21

ここ数日ネットの上であれこれ目にした文章に触発されて書いてみる。

そもそもリーダーシップとは何なのか?ここで私はG.M.ワインバーグ著"スーパーエンジニアへの道"から引用する

リーダーシップとは、人々が力を付与されるような環境を作り出すプロセスである。 (中略) タネの意味におけるリーダーシップとは、他の人々を通じて創造し、生産する事である。

この定義に従えば、誰もがリーダー足りうる事に成る。この本で挙げられているのは、グループでデバッグを行っている例である。男Aと男Bが激烈な議論をしている。女Cは黙ってリストを眺めている。激烈な議論はいつまでも終わらない。その時、女Cがプログラム中のバグを指摘する。

ここで問題を解決した女Cはリーダーシップを発揮していたといえるし、その女Cを放っておいた男A,Bもリーダーシップを発揮していた、というのがワインバーグの主張である。確かに先ほどの定義を考えれば、彼らと彼女はそれぞれのやり方でリーダーシップを発揮していたことになる。


対してヴィジョナリーとは何か。ここはGoogle検索で上位にきた某社のサイトから引用する。

"ヴィジョナリー"とは夢を実現する人々のことです。

企業理念は夢、情熱、努力 から引用

これではよくわからない。再びスーパーエンジニアへの道から引用する

技術革新を成し遂げる人は実はある秘密の鍵を持っているのだ、という結論に達した。その鍵とは特別のビジョンであって、ふつうの部分と特殊な部分の両方を持っている。ふつうの部分とは、人生における月並みな部分である。その種のビジョンなら、政治家や説教師や郵便局員でも持っている可能性がある。だがもう一つの部分は特別なビジョンであって、ビジョンを個人的なビジョンに変え、それをすばらしいアイディアへの、リーダー固有のこだわりに結びつけるビジョンである。
(中略)
ビジョンを持たない人は、ほかの人々に対した影響を及ぼさない。
ビジョンは伝染性である。見当違いのビジョンすら、たとえばヒットラーのビジョンがそうであったように、人々を引きずってゆく物だ。

ここでいうビジョン。あるいは蒼天航路で曹操が言うところの

"見たこともないようなすごいごちそう"

を描ける力というのは、私が今までに見聞きした範囲から考えるに純粋に性格、才能なのではないかと思える節がある。

というかビジョンを持てる人間というのはごく少ないのだ。あれだけ政治屋がいるにも関わらず、

"よりよい日本の姿"

を具体的にイメージできる形で提示できる人間はほとんどいない。小泉氏は、その姿をいくつも国民に見せようとした。そしてそれが正しいかどうかは別として国民の支持を得た。

さて、

ビジョナリーとリーダーは同一語か?ビジョナリーであることはリーダーにとって必須の要件か?と言われればNoと答える。この両者は重なっていることもあるが、そうである必要はない。

冒頭挙げた例を見てみよう。ただ黙ってリストを眺める女性もリーダー足りうるし、それをほおっておいた男性もリーダーと呼べるのだ。

ビジョナリーでなければ、他の人に大した影響は与えられない。しかし、他の人に大した影響を与えなくてもよいリーダーたりうることは可能なのだ。

リーダーは人格力を持たなくてはならない、とする論調も多い。しかしそれが正しいとすれば、スティーブ・ジョブスやモントゴメリー元帥のような人間はリーダーではないことになる。(もちろんそういう議論もあるだろう)

というわけでそろそろ話が見えなくなってきたので唐突におしまいにする。


inspired by

「だれでも努力次第でリーダーになれる」


僕はそれを詭弁であり欺瞞だと思う。


優秀な開発者になるのとも、マネージャになるのとも違う。リーダーになるのは、純粋に性格、才能なのだと思う。


via: そりゃブログを書くだけで平和が来るなんて甘い夢など見ちゃいねえさ - Keep Crazy;shi3zの日記