誰が書いたものであっても

2009-11-04 07:06

先日面白い記事を見つけた。ピーター・ドラッカー作と日本で紹介されているようだが、その実誰が書いたかはっきりしたことはわからない。おそらく何度か伝えられているうちにだいぶ改編されているのだろう。従って厳密な意味では現在は"詠み人知らず"ということになるのか。

ここで問題なのはそれを誰が書いたかということではない。その言葉に対する私の反応の仕方だ。

自分に規制をひき、他人の目を気にして、起こりもしない未来を思い煩ってはクヨクヨ悩んだり、構えたり、落ち込んだり ・・・・

もっとリラックスしよう、もっとシンプルに生きよう、たまには馬鹿になったり、無鉄砲な事をして、人生に潤いや活気、情熱や楽しさを取り戻そう。

via: ピーター・ドラッカー95歳の詩 - Apelog

すべての煩わしいことは、頭の内側にあり、外側にはない、とマルクス・アウレリウスは書いた。時々その言葉を思い出す。

日々煩わしいことに心を動かされるが、ふと

"これは自分の手で自分の首を絞めているだけではないか"

と思うことがある。

皇帝は何度か"煩わしさと決別した"と書いているが、それが単なる言明であり、現実とかけはなれていたことは間違いない。

しかし私も自分に残された日々の方を勘定する年になった。であれば、思いっきり駈け出してボールを蹴っ飛ばしてみたい、という気にもなるのだ。なんのことかわかりませんね。

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というわけで話をそらし、Goromi-Tubeで見つけた動画の紹介。

Ave Mariaという曲は山ほどあるが、これは素晴らしいと思う。なぜもっとメジャーにならないのかな。