iPadのビデオを見ていると

2010-02-04 07:32

どうしてこんなに想像が掻き立てられるのだる、と思う。

もっとも世の中にはこんなことを言っている人もいる。

これを持って何かをする自分が想像できない。今のところ自分を含めて誰かの何かをこれが解決してくれるとも思えない。

via: iPadって誰がどこでどうやって使うんだろう?ってちょっと考えてみたけど、ワタシにはよくわかんないや:THE SHOW MUST GO ON:ITmedia オルタナティブ・ブログ

逆の立場から書かれたものにはこんなのがある

コンピューティングというものを考えるとき、子供や高齢者のことは見落とされがちなのだが、iPadは、こうした「社会的格差」を解消する初めての製品になる可能性がある。『iPad』は、幼児がゲームで遊び、学習もできるコンピューターになるだろう。そして、おばあちゃんは電子メールを送り、ウェブを閲覧し、写真を編集するだろう。iPadは、現在市場にあるパソコンを駆逐するわけではないが、重要な新しいカテゴリーを生み出すマシンになると見られる。

こういったマシンが社会に与える影響のことを考えると、「単なる大きな『iPod touch』にすぎない」と評されがちなiPadが持つ、より大きな意味が見えてくる。それは、「みんなのためのコンピューター」だ。米Apple社が長年取り組んできた理想でもある。

via: 『iPad』はUIをどう変えるか:アラン・ケイが夢見たビジョン | WIRED VISION

後者の記事に乗っているDynabookの絵がiPad(の予想図)そのままであるのには驚く。Alan kayが実際に触ってみるまでiPadに対してコメントしない、としているのは賢明だ。しかし私のようなチンピラはすでにきゃーきゃー言っている。

ものすごい一般論で書くが、子供あるいはお年寄りが使うところに想像力が及ばない人、ビジネスパーソンである自分のことしか考えられない人は前者のような感想を述べることが多いように思う。単に中途半端にでかいiPhoneというわけだ。

しかし実家の両親のPCのメンテをし、家にかえれば子供達にやれYoutubeであれみせろ、iPhoneでこれみせろと言われる立場、あるいは子供もしくはお年寄りが使うPCについて少しでもまじめに考えたことがある人はiPadに大きな可能性を想像しているように思う。願わくば実物がその想像を裏切らないできであることを。