ここんとこ書いたブログの追記

2011-05-13 07:04

というわけで過去数日書いたネタの追記です。

その1)数日前こう書いた。

先ほど引用した部分の導入として書かれているのは以下のような仮想のストーリー。

親戚の家で、すばらしいディナーをごちそうになった。堪能したところでおもむろに 「今日の代金をいくらお支払いすればいいでしょうか?」

家に来てくれた親戚に、ディナーをふるまうのは社会規範。サービスに対価を払うのは市場規範というわけだ。ちなみに後半で引用されているのは

僕は君とのデートにもう何万円も費やしているんだ。いつになったら◯◯させてくれるんだ!

と言ってしまった男の物語である。

via: ごんざれふ

昨日ふと塩野七生氏が書いたこんな文章を思い出した。(記憶で書くので多分間違ってます)

(カエサルがなぜモテたのか?という問に対して) カエサルは女に喜んでもらいたい一心でプレゼントをしたのだと思う。女は喜んでもらいたい一心でのプレゼントと、見返りを求めているプレゼントの違いを敏感に読み取るものである。

ローマ人の物語からうろ覚えで引用

これを堅苦しい言葉で言えば「社会規範」と「市場規範」になるのではないかと思い当たった。
世界のあちこちで普遍的に行われている「デートにかかった費用を男性が負担する」という習慣にどのように対応するかは、その人がどの程度成熟しているかを測る面白い尺度になるのではないかと思う。私は未だにこの習慣に納得できないし、「男女平等」という言葉と考え合わせるとその理不尽さには怒りを覚えるほどだ。

しかし

ごくまれにではあるが、女性と食事をする機会があれば、何も言わず全額払う。相手が

「いや、それは」

といっても「10年に一度のことですから」(実際そうなのだ)といって全部払う。

この世の中は理不尽なものだ。それに反抗するのも結構だが、理不尽な世の中で生きていくためにはその理不尽さとつきあうことが必要。40をだいぶ超えた年になって、時々はそうしたことに思い当たるようになった。

しかしなんだね。もしこうした場面で相手が「硬くなに」払うことを主張したとすれば、それは「お前は社会規範ではなく、市場規範を意識して私におごろうとしている」とみられたから、かもしれぬ。


---------


以上、完全に印象だけで話を進めてきたので何の自信もないが、日本のベンチャー界にはエリートとヤンキーとオタクという3種類の企業があると言える。


3つのうちで一番数が多いのがヤンキーなわけだが、これは考えてみれば当然のことだ。我が国では、エリートコースという言葉の意味するところがそれ即ち大企業での出世であるから、ベンチャー企業に集まる人材は必然的に非エリートが中心となる。「ヤンキー的なもの」は非エリートが自らをアイデンティファイするための最適な価値観なのだ。


via: 日本のベンチャー企業に見られる3つの類型 - よそ行きの妄想

私が「いかがなものか」と思う理由はこれであった。要するにヤンキーばかりなのだ。ハートは熱い。金は儲ける。しかしそこで働きたいとは思わない。

via: ごんざれふ

昨日こんなことを書いた。ああ、私が思っていた疑問を解消してくれたこの文章と出会えてありがとう、などと思いながら。

しかしevernoteに残っていた記録を漁っていたらこんな文章を見つけた。

技術という意味では、これは僕の造語なのですが、「深い技術」と「早い技術」というのがあると思っています。今のウェブの世界は「早い技術」--サービスを開発したら、いろんなものを組み合わせて、さらにそれをいち早くサービスとして立ち上げて、ユーザーをどんどん集めて改良していくんですね。「早い技術」というのが正しい言葉かどうか分からないけど、僕はそう定義しているんです。

 「深い技術」というのは、やはり1つのテーマで、例えばGoogleはページランクというアルゴリズムがベースにあって、そのページランクというアルゴリズムで全世界のウェブサイトをランクづけして、といったものです。その検索の結果をとにかく常に改良していくといったものは、そう簡単にできる技術じゃなくて「深い技術」ですよ。アルゴリズムも相当深いです。そこに数学者やらPhDやら集めてきて何かやるというのはさらに上を行っているわけです。

 そういう「深い技術」と「早い技術」がネットの世界にあって、この「深い技術」を極めようという気が、今の日本のネット産業の中に全くないのだろうなということですよね。

via: ネット企業は技術志向の経営を--梅田望夫氏が語るウェブの進化 - CNET Japan

この記事の日付は2006/2。つまり今から5年前である。5年前から状況は変わっていない、というのはひとつ。もうひとつは、

「せっかくブックマークしながら、それをすっかり忘れて、類似情報にであって喜んでいた私のおめでたさ」

に絶望した。

かくのとおり、Evernoteになんでも放りこむのは結構だが、それで満足してしまっていいのだろうか?そもそも私はなんでEvernoteの内容など掘り返していたのか、という点に関しては以下次号。(というかそもそも公になることがあるのか)