直感と経験

2011-08-11 06:35

というわけでやおらこんなことを言い出す。

7月14日付けの『Science』誌」に掲載された論文によると、新しく学んだ事実をコンピューターに記録した場合、その事実を思い出す確率が下がるという。つまり、オンラインでいつでも便利に入手できると思えば、それについて学んで記憶する意欲が下がるのだ。

中略

「われわれは実生活で、ほかの人たちの記憶を利用しているが、この現象はそれに似ている。インターネットは、実際には、たくさんの他者へのインターフェースなのだ」とスパロウ氏は言う。

via: 「Google」は人の記憶能力を低下させるか « WIRED.jp 世界最強の「テクノ」ジャーナリズム

というわけで、何でもGoogle先生にお伺いを立てれば宣託が得られる、と思うようになっているのだそうな。この話を聴くたび私はこんな光景を頭に思い浮かべる。山の中にある小さな村。そこで何を聞いても

「あーそのことなら村の長老に聞いてくれ。長老は何でも知ってる」

と答える素朴な村人たち。我々の姿はそれに近い、、のかもしれない。

さて、「Googleを使えば記憶などする必要がない。その分を別のことに使おう」という主張も時々見かける。「別のこと」が何なのか、記憶することに労力を使うと他の何が犠牲になるかなど、関連する研究ネタは多いような気はするが、気にしない。

私が最近考えているのは

「知識や思考が外在化している状態と内在化している状態の差異」

である。つまり「何でも必要なときに検索すればいい」と頭の中に知識が存在している状態は果たして等価なのか、そうでないとすれば何が違うのか、ということである。

先日こんな文章を読んだ。

直感とは、自分の中に潜在する様々な要素が何らかの拍子にぶつかりあって瞬間的に誕生する化学変化のようなものだと思う。交差するものがない空っぽの空間では化学変化は起こりえない。「あっ、そうだ!」と膝をぽんと打つこともないだろう。少なくとも二つのものを包含して初めて接触があり、もっと多くのものを持っていれば、その頻度は高くなる。 ただ直感というのは、図書館などで学習して得られるものとは趣を異にしている。活字だけで得たものでは、なかなか膝をうてない。そう考えれば、この世の中に、しなくてもいい、とるに足らない経験などというものはほとんどないのではなかろうか。その時どんなにつまらなく思われる経験でも、あるいは批判精神であってもあとになってそれが一瞬のひらめきを生み出す大切なキッカケになるかもしれないのだから。もちろん、心弾むような有意義な経験なら言うにおよばずである。 そしてひらめきや直感は、えてして本人も気づかぬような哲学を内包することがあるようだ。経験の引き出しや批判精神を数多く持っているほど、直感はより正しく、より素晴らしいものとなる。そうなると後付はやさしい。自分の引き出しを探って、直感が生まれでたプロセスや背景をスローモーションのように素直にたどればよいのだから。

p58-59
松永真 デザインの話

こうした「直感」がひらめく瞬間、というのは外部に情報をおいておくだけでは現れない、、のではないかと思う。そもそもこの「直感」というのはなかなか科学的方法論に乗りづらいものではなかろうか。

以前書いたような気もするのだが、例えば

「人類の1%に一生に1回だけ未来を予知する能力が発生する」

という事象が本当に存在したとしよう。しかしそれを検証することは現実問題として不可能だと思う。定常宇宙論が

「なんにもないとこから物質が生まれるわけないだろう」

という方向から否定されなかったのも同じような理由ではなかろうか、と勝手に想像している。

であるから、科学的な検証にはあまり期待できないのだが、松永氏が述べているように、多くの経験、知識と直感のひらめきには相関関係がある、と主張してみよう。付け加えるとすればそれに加えて

「対象となる問題に、没頭した後"ちょっと浮かす"」

ことが必要だと思うのだ。「もう駄目だ。帰ろう」とPCの電源を落とした瞬間とか、駐車場で車の扉を開けた瞬間に

「あ、バグの原因わかった」」

という経験を持つ人は多かろう。欧米流に言うと

「シャワーを浴びているときにアイディアがひらめくことが多い」

ということになるのだろうか。