ものづくり大国の幻想

2011-11-29 07:24

二月ほど前、「タブレット端末は、ただのハードメーカーには作れないのがはっきりした」などと新しいことを発見したかのように書いたのは私です。

しかしそんなことは40年前から分かっていたのだった。

つい数十年前まで、日本の製造業においては、デザインなどというものは、ほとんどかえりみられなかった。品質がよければ見かけはどうでもいい、ちおう考え方であった。ところが現在では、その品質ということばの内容が変化しつつある。その製品に付加された情報的価値こそが品質となりつつあるのである。工業の時代においては、ものが動き、それに情報がのっていた。ものが情報を動かしていたのである。いまやそれとはちがった様相を呈し始めている。うごくのは情報である。ものはそれにひきずられている。需要は情報にあり、ものそれ自体は、情報をのせる台にすぎないとさえいえるであろう。

情報の文明学p231 1971-1988

Tabletはもはや「情報をのせる台」にすぎない。この主張が公にされたのは1971年。書籍になったのは1988年である。もう一つ引用。

ところが、工本主義もまた、反動イデオロギー化するおそれがあるということです。工業生産第一主義が、いまや日本の進歩の足をひっぱる可能性がでてきている。もう工業の時代ではかならずしもなくなりつつある。それにもかかわらず工業生産第一でいけば、たいへんまずいことになるのではないか。

情報の文明学p138

実際大変まずいことになっているわけだ。ではどうしよう?

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日本経済が絶好調のころ書かれた本には「なぜ日本はかくも協力か」という要因がたくさん列挙されている。

その中にこんなのがあった。(うろおぼえで書くが)

「日本企業は変革を恐れない。なぜなら日本では変革の結果失敗したとしても、首を切られることがないからだ」

それは確かに真実であったかもしれない。しかし皮肉なことに常に命綱をつけているはずの日本企業で変革が行われず、いつまでも過去の幻想にしがみついているわけだ。

村社会では、首を切られることはないが、皆が死んだ目をしている、、とかなんとか分析は他の人にまかせよう。Front Lineにいるヒラはどうすればいいのだろうね。といったところで以下次号。