情報と知識と知恵

2011-11-30 07:14

というわけでWISS2011で話す内容をポロポロネタバレしている今日この頃ですが、皆様いかがお過ごしでしょうか。

いや、人前で発言するからにはそれについて調べたり考えたりしなくてはならない。標題の内容についてだ。特に「知識」と「知恵」について。

子供の頃から「正義の味方」の重要性についてはいや、というほど刷り込まれる。地球の危機を救ってくれるのは正義の味方なのだ。そうだ僕も(わたしも)正義の味方になろう!

あるいはそれを「知識」と言えるのかもしれない。しかし「知恵」とはそれを現実の経験からのフィードバックで磨き上げたものではないかと思うのだ。

ではこれを「知恵」に変換するとどうなるか?

「正義の味方は信用できない」

なぜそう言えるのだろう?

糸井さんとはお会いしたことはありませんが、もちろん約30年前から存じ上げています。糸井さんの凄さを感じさせられたのは、福島原発事故後に糸井さんがツイートした言葉です。それを紹介すると――。ぼくは、じぶんが参考にする意見としては、「よりスキャンダラスでないほう」を選びます。

「より脅かしてないほう」を選びます。「より正義を語らないほう」を選びます。「より失礼でないほう」を選びます。そして「よりユーモアのあるほう」を選びます。――以上です。

via: 原発関連情報の取捨選択に役立つ、糸井メソッド - Togetter

もう二つ。

正義を理由に攻撃を繰り返している人たちは、ヒーローではなくて処刑人になりたいのではないかと思う。だから問答無用に打ちのめせる悪人をみつけると嬉しそうに殴りかかる。

via: Twitter / @denkyuu: 正義を理由に攻撃を繰り返している人たちは、ヒーローで ...

正義に目覚めた人間は、あらゆる物事を二元論で捉えるようになり、「敵と見なした者にはいかなる攻撃も許される」と考えるようになり、人の話を聞かなくなり、事実を見なくなり、最後には自分に同意しない人間全てを敵と見なすようになる。あとbio がクソ長くなり、アイコンが本人の顔写真になる

via: わかっていない

最後の引用文には、以下の引用文を付け加えておこう。bioが長くなるのも、顔写真が本になるもの「自己愛」が肥大した結果のように思えるのだ。

また、コールリッジによる有名な格言もある。

最初に真実よりキリスト教を愛する人は、キリスト教より自分の宗派や教会を愛するようになり、最後には何よりも自分を愛するようになる。

(熊とワルツを 付録A)

via: 失敗の本質の一部

こう書いてくると、私は先程の「知恵」を少し修正すべきであることに気がつく。

「正義の味方を名乗る(あるいは自負する)人間は信用できない」


この背景にあるものについて少し考えてみる。

多くの人は常に自尊心の欠如と戦っていると思う。他人からみて理不尽な怒りのほとんどは自尊心の欠如からきているのではないか、と最近では考えている。

そして「正義の味方を名乗る(自負する)」ことというのは、自尊心を手っ取り早く満足させる方法なのではないかと思う。自分は正義。反対するもの、自分の気に入らないものは全て悪。実に単純で明快。そしてこれほど自尊心を満足させる主張はあるまい。しかしこの図式において、彼ら(彼女たち)が目指しているものは「正義の実現」ではなく「自己愛の最大化」であることには注意を払う必要がある。

震災とそれに伴う原発事故以降とてもたくさんの「正義の味方を名乗る(自負する)人」が生まれた。私は彼らが生まれた背景については理解するが、彼らの主張に価値を認めることはできない。

こうした図式は別に「デジタルネイティブ(笑)」に特有のものでも、今日だけの起こったことでもない。おそらくは人間社会あるところ何度も繰り返されてきたことなのだ。

たとえば、最も手近な服装の問題にしても、ゲートルを巻かなければ門から一歩も出られないようなこつけいなことにしてしまつたのは、政府でも官庁でもなく、むしろ国民自身だつたのである。私のような病人は、ついに一度もあの醜い戦闘帽というものを持たずにすんだが、たまに外出するとき、普通のあり合わせの帽子をかぶつて出ると、たちまち国賊を見つけたような憎悪の眼を光らせたのは、だれでもない、親愛なる同胞諸君であつたことを私は忘れられない。

(中略)

そしてたまたま服装をその本来に扱つている人間を見ると、彼らは眉を逆立てて憤慨するか、ないしは、眉を逆立てる演技をして見せることによつて、自分の立場の保鞏(ほきよう)につとめていたのであろう。

via: 「騙された」とか歌って喜んでる斉藤和義と信者はこれ読めよマジで

というのが「知識」と「知恵」の違いと思うのだけど、どうかな。ああ、だんだんネタバレが。