論文についての雑感(しつこい)

2011-12-16 10:08

昨日こんな記事を見つけた(多分遠い昔に読んだことがあると思うが忘れていた)

wise ではない人というのはつまりバランス感覚のない人で、組織の力学を理解して清濁併せ呑むことができなかったり、場の空気が読めずその場にいる人たちのほぼ全員が暗黙のうちに反対しているのにそれに気付かず自分の意見を押し通そうとしてますます反感を買ってしまったりする人で、そういう人たちに対する、「そのままでは自分の理想を実現することはできないから、不毛な政治ゲームを少しでも減らすように心がけながらも、政治ゲームには政治ゲームで対抗していかなければならない」という分裂勘違い君の意見は、説得力もあるし、とても温かいメッセージだとも思う。

一方で考えなければならないのは、物事を大きく変えるような提案というのは、実は往々にして、intelligent だけれども wise ではない人たちから出て来ている、ということである。

小野和俊のブログ:バランス感覚を身に付けると、コミュニケーションの角と同時に能力の角も取れることがある から引用

いくつかのことを考える。通りやすい論文というのはつまるところWISEなものではなかろうか。基本的に減点法で採点されるから「減点ポイントを賢く回避する」ことが採択につながるわけだ。

昨日ある研究会にでていて

「科学とは普遍的な知を追求するものだから、少数の例を深く調査、考察した論文は評価されない傾向がある。これはおかしい」

という言葉を聞いた。逆に言えば、現状論文を通すためには

「この論文で主張している内容は、普遍性をもつものである」

ことを主張しなければならない。そのためには「多くの」被験者に対して評価実験を行うのが有効な方法だ。
何度も論じられていることだが、私も「くだらない評価実験」を軽んじる傾向がある。多くの被験者を集めて何が言えるのだろう?どこにも存在しない「平均的なユーザ」に対して何を言おうというのか。

しかし仮にそう考えていても、評価実験を行うことはWISEである。まず「自分の信条と異なることであっても、必要であれば行う」というのは知恵である。世の中を生きて行くためには、こうした態度が必要だ。

次に「論文査読者に"これを採択しても問題ない"と自分への言い訳を用意してあげる」という点においてもWISEである。必要なのは「失点を少なくする事」であり、そこがなければ価値はない。(と見なされる)

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先日のWISS2011で(しつこい)最後に参加者全員に「チャットにコメントを書き込んでください」という呼びかけがなされた。そこでこう発言した人が居た。

「むしろ論文って,必要なんですかね.一般人はほぼ読まないですのに」

WISSで使われていたチャットシステムでは発言に対して、賛成、反対の意を投票する事ができる。たいていの場合「賛成票」を投じるのに使われるのだが、この発言に対しては珍しく「反対票」が多く投じられた。この発言を投じた人は数分後に

「すみません・・・」

と発言していたから、多分誰かから直接「注意」を受けたのだろう。

チャットに参加している人間は、論文を核とした世界に生きている人が多いから、この発言は確かに「空気を読まない」WISEではない発言として受け取られたと思う。しかし私はこの発言を支持する。少なくとも、「論文超重要」という言葉だけで封じていいものではない。この発言には、現実を観察した上での「Intelligence」があること疑い様がない。

WISS2010では改革の一つとして「評価実験は査読の対象としない」という点が打ち出された。これに反発して参加を取りやめた研究室もあったやに聞く。また聞いてみると「既存の論文+査読」システムの問題点を直すため、様々な試みも行われているようだ。

そうした試みは結局のところ「やっぱり論文だよね」ということに戻ってしまうようなのだが、それで問題が消えたわけではない。先送りにしただけだ。

学会に参加していると「学会に企業からの参加者が少ない」という声をよく聞く。その原因は何だろう?先ほどの発言にある

「一般の人は論文なんか読まない」

という点に一つのヒントがないだろうか?デモビデオ+プレゼンが主、論文という名の補足説明が従ではいけないのだろうか?だいたいWISSの会場で誰も論文読んでないではないか。プレゼンを聞いているだけで。

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とまあチンピラサラリーマンはWISEでない発言をするわけだ。言いっぱなしにするのではなく、少しは考えなくちゃね。