読書有害論

2012-01-11 07:24

というわけでいきなり引用。

今日では、活字文化の重要性がいささか誇張されすぎているきらいがある。 たとえばわれわれは、「図書館や教育施設がたくさんあるから、人間は大きな進歩を遂げてきた」と考えがちだ。だが、そのような施設がむしろ高い自己修養の妨げとなる場合さえある。金持ちが必ずしも寛大ではないのと同様、立派な図書館があり、それを自由に利用できるからといって、それで学識が高まるわけではない。立派な施設の有無に関わらず、先達と同じように注意深くものごとを観察し、ねばり強く努力していく意外に、知恵と理解力を獲得する道はない。 単なる知識の所有は、知恵や理解力の体得とはまったくの別物だ。知恵や理解力は、読書よりもはるかに高度な訓練を通じてのみ得られる。一方、読書から知識を吸収するのは、他人の思想をうのみにするようなもので、自分の考えを積極的に発展させようとする姿勢とは大違いだ。 つまりいくら万巻の書物を読もうと、それは酒をちびちび飲むような知的なたしなみにすぎない。その時は快適な酔い心地を味わえるものの、少しも心の滋養にはならないし、人格を高める役にも立たない。

自助論 p192-193


この文章が出版されたのは、1858年。日本で出版されたのは「学問のすすめ」と同じ頃だ。

この「活字文化」「書物」をインターネットにおきかえれば、昨今聞こえてくる「インターネット有害論」と実に多くの部分が重なる。かくのとおり新しいえメディアが登場するたびに「人間が馬鹿になる」という議論は繰り返されてきたので、問題はない。QED

という主張に私は与しない。ここで行われている議論を抽象化すれば

「人間に知識、知恵を得たと錯覚させるようなものは有害である」

ということになる。そして書物とインターネットには両方等しくそのような性質がある、としてもその程度に差がある。

書物を読むためにはある程度集中し、かつ読書という行為を行わなければならない。インターネット(ここでは都合上Google + Evernoteとうことにするが)はそうした集中も努力も必要ない。さらには、頭の中に知識を吸収してもいないのに「何でも知っている」という錯覚を人間に与える。このような差異を無視して

「何度も言われてきたことだから大丈夫」

とは私には思えない。

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とわめきちらしていると

「書を捨てよ町へ出よう」

ですか。とある人に言われた。をを、確かにそうだ。そう思ってGoogle先生にお伺いをたててみれば、こんな文章に出くわす。

この本の終わりのほうでタイトルの意味が明かされるところがある。大学に入って病気になり、療養生活のあと快方に向かった頃、寺山は生きる「実感」をもとめて読書ざんまいの生活から遠ざかろうと思いはじめた。そしてそこには、それまでの豊富な読書体験から得たモデルがあった。それはアンドレ・ジッドの紀行的詩文集『地の糧』で、「書を捨てよ、町へ出よう」とは、そこに出てくる言葉なのである。

しかし「書を捨てた」わりに、まさにその本の中に、古今の思想書や文学からの引用がふんだんに盛り込まれている。どうやら彼は「町へ出る」、つまり「生」の実感を求めて体験へ向かい始めた後でも、引き続き猛烈な読書家であり続けたようなのだ。「読書無用論」の擁護者を期待してこの本を開いた人は、裏切られた思いがするに違いない。

ところで体験を通じて生の実感をもとめ、こうした「書斎の知識」を去って巷に出て行くという発想自体は、ジッドに限らずそれほど新しいものではない。

たとえばゲーテの『ファウスト』である。この劇の本筋は、中世以来の大学で主要な四学問とされた法学・哲学・医学・神学のすべてに通暁した大博士ファウストが、昔よりちっとも利口になっていないことに絶望するところから始まる。彼の場合もそうした書斎の知識を去って、現実の体験、つまり「行為」の世界に、悪魔メフィストを従えて飛び込んでいくことになる。

ゲーテ、ジッド、寺山と、一見したところ彼らはみな、「反読書」「反書物」的なスローガンの持ち主、読書無用論の弁護者と思われかねない。事実はどうやらまったく逆で、実はいずれ劣らぬ大変な読書家のようなのだ。考えてみれば、言語によって創造的な仕事をなそうとする人々がそうでないと考える方が、むしろ不自然であろう。

したがって寺山の挑発的なタイトルも、ファウストのセリフも、制度化された知の体系を超え出て、生のリアリティーに根ざした認識や創造を目指す心構えを、文学的修辞を使って述べたものと見るべきだろう。そして、そのような認識や創造を成功させるためには、先人や他人の知識と知恵を前もって学んでおくことは不可欠の前提となろう。

結論として、「書を捨てる」のもいいが、その前に「書を読む」必要がある。あるいは「町へ出る」のもいいが、でたあとでも「書を読み続ける」必要が大いにある。寺山もジッドもゲーテも、実はその代表的実例を提供しているのではないだろうか。

via: 『書を捨てよ、町へ出よう』というタイトルの本がある

つまるところは「知識を得ること。それを現実世界に活かすこと」その両方を行わなければならん、という至極当たり前の話になる。しかし至極当たり前の話を忘れることも普遍的に行われていることである。

忘れて何をするかといえば、書を読み、あるいはインターネット上の情報に「触れる」ことで「世の中のことについてはだいたいわかった」と閉じこもる態度である。これも普遍的に起こることだ。物理学でノーベル賞をとった人(名前忘れた)がこうTVで言っていたのを覚えている。

「理論物理学者たるもの、行ってみなくてもノーベル賞の授賞式がどんなものかはわかる」

実際にこのおっさんは行ってみて感動したようだが。

このような態度がなぜ起こるかといえば、それは自尊心の問題だと思うのだよね。この「自尊心」なるものを正しく持つことは結構重要なのではないかと思う今日この頃なのだが、そのことについては以下次号。