自尊心について

2012-01-16 07:28

というわけで年をとるごとに「これが重要なことではないか」と思う自尊心について。

自尊心とは、人間が身にまとう最も尊い衣装であり、何物にもまして精神を奮い立たせる。「汝自身を敬え」とはピタゴラスが弟子に命じた言葉だが、自尊心という気高い理念に支えられた人間は確かに、決して官能に溺れて身を汚したり、非口な考えで心を汚したりはしない。日常生活のすみずみまで自尊心が行き渡れば、それは清潔や沈着冷静、貞操、道義心などあらゆる美徳の基礎となろう。

自助論 p195



古い本だから、今読むと「こう賛美ばかりではいかがなものか」と斜めに構えたくもなるのだが、この「自尊心」というのは人間世界においてかなり重要な位置を占めているのではないかと最近考えている。

でも、今はそうではない。人々は「あなたには無限の可能性がある」と持ち上げられる一方で、社会的にはさっぱり評価されない。現在のような劣悪な雇用環境の下で、自己評価が高い若者たちは必要以上に苦しんでいます。

 この高すぎる自己評価と低すぎる外部評価の落差を埋めるために、多くの人々が呪いの言葉に手を出すようになる。他人が傷つくさまや他人の評価が下がるのを見ることで、溜飲を下げる。でも、一度その方向に踏み出すと、もう止まることができなくなります。

'08年に秋葉原で無差別殺傷事件を起こした加藤智大の場合がその典型です。加藤はある日何かを「呪った」のだろうと僕は思います。呪いの標的となったのは、具体的な誰かや何かではなく、彼が「本当なら自分が所有しているべきもの」を不当に奪っている「誰か」です。彼の嫉妬や羨望が身体を離脱して「呪い」となったとき、それは現実に人を殺せる力を持ちました。

 繰り返しますが、攻撃性は現実の身体に根拠を持つ限り、それほど暴力的にはなれません。攻撃性が破壊的暴力に転化するのは、それが現実の身体を離脱して幻想のレベルに達したときです。

 だから、呪いを制御するには、生身の、具体的な生活者としての「正味の自分」のうちに踏みとどまることが必要です。妄想的に亢進した自己評価に身を預けることを自制して、あくまで「あまりぱっとしない正味の自分」を主体の根拠として維持し続ける。それこそが、呪いの時代の生き延び方なのです。

 正味の自分とは、弱さや愚かさ、邪悪さを含めて「このようなもの」でしかない自分のこと。その自分を受け容れ、承認し、愛する。つまり自分を「祝福」する。それしか呪いを解く方法はありません。

via: 内田樹「呪いの時代に」 ネットで他人を誹謗中傷する人、憎悪と嫉妬を撒き散らす人・・・・・・異常なまでに攻撃的な人が増えていませんか  | 経済の死角 | 現代ビジネス [講談社]

加藤氏は、自尊心を取り戻す方法として、何かを呪った。そしてそれを「倒す」ことで自尊心を取り戻そうとしたのだと思う。

福島原発の事故以来、たくさんの「正義の味方」が現れた。私の意見ではその90%は「自尊心を満足させるため、"敵"である東電、そして誰かを処刑する」ことを欲した人たちだ。

G.M.ワインバーグの本にも「怒るとは、つまるところ低い自尊心の表れである」とかなんとか書いてあったような気がする。

じゃあどうすればいいのか。内田氏の意見では

正味の自分とは、弱さや愚かさ、邪悪さを含めて「このようなもの」でしかない自分のこと。その自分を受け容れ、承認し、愛する。つまり自分を「祝福」する。それしか呪いを解く方法はありません。

 先に述べたように、呪いは「記号化の過剰」です。それを解除するための祝福は、記号化の逆で、いわば「具体的なものの写生」です。世界を単純な記号に還元するのではなく、複雑なそのありようをただ延々と写生し、記述してゆく。「山が高く、谷が深く、森は緑で、せせらぎが流れ、鳥が鳴き・・・・・・」というふうにエンドレスで記述すること、それが祝福です。

 人間についても同じです。今自分の目の前にいる人について、言葉を尽くして写し取り、記述する。祝福とはそういうことです。

 そうやってすぐにわかるのは、百万語を費やしてもただ一人の人間さえ記述しきれないということです。記号で切り取るには、世界はあまりに広く、人間はあまりに深い。その厳粛な事実の前に黙って立ち尽くすこと、それが祝福の作法だと僕は思っています。

via: 内田樹「呪いの時代に」 ネットで他人を誹謗中傷する人、憎悪と嫉妬を撒き散らす人・・・・・・異常なまでに攻撃的な人が増えていませんか  | 経済の死角 | 現代ビジネス [講談社]

この世の中というものは、複雑で捉えきることができない。そした事実を受け止めることが呪いを解く事だ、と彼は主張する。

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これを読んでいて思ったのだが、「宗教」というのは底の浅い「記号化」のバーゲーンセールのようなものではなかろうか。

「異教徒」

という単純な記号化を行うだけで、誰でも批判したり、危害を与えることができる。そしてそれは賞賛される行為となるのだ。

「宗教」の恐ろしさは、本来「複雑で簡単な記号化が不可能なものである」この世の中、その成り立ちについて「明確な答え」を与えてしまうことにある。

宗教的説明は人生の根本的な意味を明確にしてくれる。我々はなぜここにおり(どこかに行くとすれば)どこに行くのかを」つまり、「なぜ存在しているのか」という永遠の問に対する答えを与えてくれるのである。

経営の未来ーP217

困ったことに、神様というのは、仮に存在していても代理人を通じてしか話しをしてくれない。そしてその代理人はたくさんいるのだ。「なぜ存在しているのか」という永遠の問に対する答えは、代理人の数だけ存在する。

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ここで少し元の問に戻る。世の中は複雑で捉えどころのないものだ、という話を書いたが、世の中の進歩は、そうした認識を「持たない」人たちによって進められてきたという気もする。

「進歩」だの「革新」だの言葉は勇ましいが、それが80%意味するところは

「多くの人に迷惑を掛けること」

だ。Amazonで本を買うのはとても便利だから私はよく利用する。しかしそのため何件の個人経営の書店が倒産したのだろう。AppleがiPhoneを作ったことによって携帯電話というビジネスは全く違うものになった。そしてそれはどれだけ多くの会社に「迷惑をかけた」ことだろう。そうした変革をもたらした人たちが、「世の中の捉えようのない複雑さ」をどれだけ認識していたかわからないが、少なくとも彼らはその前で立ち尽くしたりはしなかった。

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話は宗教に戻る。宗教は記号の「バーゲンセール」と書いたが、実のところ人間はなんらかの記号を求めることで、心の安らぎをえるものなのかもしれん。

そうやってすぐにわかるのは、百万語を費やしてもただ一人の人間さえ記述しきれないということです。記号で切り取るには、世界はあまりに広く、人間はあまりに深い。その厳粛な事実の前に黙って立ち尽くすこと、それが祝福の作法だと僕は思っています。

via: 内田樹「呪いの時代に」 ネットで他人を誹謗中傷する人、憎悪と嫉妬を撒き散らす人・・・・・・異常なまでに攻撃的な人が増えていませんか  | 経済の死角 | 現代ビジネス [講談社]

個人的には内田氏の意見に賛成だが、「厳粛な事実の前に立ち尽くす」ことに耐えられない人のほうが多いような気もする。

であれば、間違った記号にとりつかれるよりは、「穏当な記号」を広めたほうが世の中の役に立つのではないか。立派な宗教人というのはこうした認識をどこか持っているような気がする。少なくとも映画「天使と悪魔」の終わりのほうで、ローマ教皇はそのようなセリフを言っていたような記憶がある。