ユーモアのセンスとは

2012-02-24 06:56

米国のドラマとか見ていると

Sense of humor

という言葉をよく耳にする。いつか「異性に求める資質の上位にユーモアのセンスがはいってくる」とか読んだような気もする。

このSense of humorというのは日本人である私はなかなか理解が難しい。そもそもユーモアなるものが存在しているのはなぜなのか。進化の上でどんな意味があったのか、という議論も読んだことがある。


伊藤 正徳という人が書いた帝国陸軍の最後という本がある。そのガダルカナル戦での記述が頭にのこっている。

「しこうして彼らは余裕を持って事に当たる伝統の血を受け継いでおり、いわゆる"あがる"ことが少ない。日本軍を撃退した彼らが翌日一大隊ずつマタニカウ川に飛び込んで汗を洗い流していたことなど、日本軍では考えられない"激戦中の水泳"であった」
(うろ覚えなので多分間違ってます)

一時ほど「日本人選手は大舞台で力を発揮できない」とはいわれなくなったように思う。しかしオリンピック選手のその後を扱った番組などを見るとやはり

「余裕を持って事に当たる」

伝統は米国に存在しているのではないかと思う。平成になりだいぶ薄れてきたとはいえ今だ日本には「皇国の興廃この一戦にあり」といった悲壮感-裏を返せば余裕の無さ-が存在しているように思う。

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さて最近この本を読み、いくつかの点がつながったようなきがした。



引用すると

「速やかに立ち直る人は、ストレスに直面したとき、他の人に比べて複合的な感情を持つ」という結果が示されています。 難局に直面すると、多くの場合ポジティビティは窓から逃げ出してしまいます。しかし、レジリエンスが高い人達の場合はそうではありません。たとえネガティビティに屈してもポジティビティをなくさないのです。

3:1の法則 p156

何かに集中するのは大いに結構。しかし複合的な感情を持つ人こそがレジリエンスが高い、つまりストレスにうまく対処する。こうこの本では主張されている。ネガティブな事件に遭遇した場合に、そのダメージを受け止めながら、ポジティブな要素を持ちうる人が強靭だと。なぜそうなるか。

最終的にたどりついた結論は、ポジティブ感情とネガティブ感情は、異なる時間尺度の上で意味を持つということです。危機に臨んだときにネガティブ感情が指向を狭めることは、ある意味その瞬間を生き延びるために有効でした。 一方ポジティブ感情によって広げられた思考は、もと長い時間尺度において、別の形で有効に作用したのでしょう。ものの見方が拡張したことは、長期にわたって祖先たちのリソースを形成するために役立ったのです。 3:1の法則 p47

人間は野生時代からの反応として、危機に対処するときその事だけに集中する。そりゃ虎を目の前にして「そういえば、この体験を本に書いたら売れるぞ」とか考えていたら食べられてしまう。

しかしポジティブな感情を持つこと-私はここでそれをユーモアのセンスを失わない、と強引に解釈する-ことは、物の見方を広げ、もう少し長い時間スケールでその出来事を位置づけることを可能とする。

それこそが、伊藤正徳が言ったところの「余裕を持って事に当たる伝統の血」ではないだろうか?そして米国社会において「ユーモアのセンス」が重視される「進化的な意味」は余裕を持つことによってレジリエンスを高める、ということなのではなかろうか。

この本にもいくつか「激戦中のユーモア」が紹介されている。


ドイツ軍の強力な攻撃に「やつらこんろ以外はなんでも投げつけてきやがる」と毒づいた英国兵。強力な爆発が起こり、建物が崩れる。ふと気がつけば目の前にこんろが落ちている。
「奴らがこんな近くにいるとはな」

いや、もちろん我が国にも戦場におけるユーモアはあったのだろうけど。覚えているのは

ノモンハン事件で、戦車隊の隊長が「歩兵は氏ねば安い棺桶に入れられる。我々の棺桶は高価な戦車だからこっちのほうがずっといいぞ」と言い、隊員達がげらげら笑った、というものだ。いや、面白いんだけど、なんだかね。