試論:私論:不便益(その1) (was 人工知能学会全国大会にいってきたよその2)

2012-06-24 07:33

というわけで、山口で聞いた「不便益」の発表及びその後のQ&Aに触発されて書き始めた文章である。

不便益という言葉を最初に聞いた時「これだよ!」と思った。それ故学会で発表を聞いたのだが、その内容にはいささか物足りなさを感じた。しかしその発表の後に素晴らしい指摘をした人がいた。(残念なことにその指摘は発表者に理解されていないようだったが)

と文句を言っているのであれば、自分で考えをまとめよう、というわけで以下に書いてみる。

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世の中にはユーザビリティ原理主義者とでも言うべき人たちがいる。曰く

「説明書なしに観ただけで使えるようにならなくちゃだめだよ」
「誰もが使えなくちゃだめだ」
「これは"モード"があるね。ユーザビリティがなっちゃいない」

彼らと彼女たちにとっては、こうした「ユーザビリティ原理」に適合したものだけが「良い製品」なのだろう。

問題は

「世の中は原理主義で割り切るには、少し複雑すぎる」

ところにある。原理主義というのは、複雑な世の中を「これ」か「これ以外」で単純化する行為だと思う。それ故知能の負担は少ないし、かつその「すがすがしいまでの割り切り」は共感を呼ぶことがあるようだ。しかし年を取ってくると

「お若いの。元気がいいことだなあ。ところでこれはどうだ?」

と問うてみたくもなる。

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ここでは3つの例を挙げる。

1.自転車

2.ヴァイオリン(楽器一般)

3.vi(及びその派生エディタ)


順に説明する。

1. 自転車

ユーザビリティ原理主義者は、自転車についてどう考えるのだろう。寡聞にして、練習なしに自転車に乗れた人の話しを聞いたことがない。(多分世の中には存在しているのだろうが)それどころか、説明なしに自転車に乗れる人はまずいないのではないか。(何をするものかもわからないと思う)

自転車の形態はここ100年以上変化していないようだ。例えば「現代のハイテク」を駆使して転ばず運転できる自転車を作ることもあるいは可能かもしれない。いや、そんな面倒なことをしなくても補助輪をつければよい。

しかし最終的にはほとんどの人が補助輪をとっぱらってしまう。そして膝をすりむいたり痛い思いをしながら自転車の乗り方を習得し、そして高い金を出して新しい自転車を買うのだ。

こうした行為すべてが、ユーザビリティの原則に逆らっている。しかし人々は自転車に乗り続ける。それはなぜだろう?

それは「不便」さと裏腹のメリットがあるためにほかならない。自転車は本質的に不安定である。それ故運転することができるまでにかなりの修練を必要とする。
しかしその「不安定さ」故に得られる俊敏さ、柔軟さ、効率性(Wikipediaを信じれば、移動に必要なエネルギーは徒歩の1/5とのこと)

あるいは単に「みんな乗っているから」が最初の理由かもしれない。しかしこの「不安定さ」=「不便」を伴うメリットを多くの人は受けていれている。

しかしそれとともに、自転車が今日の形態に落ち着くまでの歴史についても興味を払う必要がある。当初地面を足で蹴って進む機構だったが、複雑になるのを承知でペダルがついた。スピードを増すため前輪が巨大化したが、それは危険とのことでチェーンがついた。つまり進化の過程において

「解決された不便」

「残された不便」

両方が存在する、ということになる。こうした観点から、残り2つについて考え見よう。

(とか書いておいて本当に続くのか?)