様式美の誕生(またはKATAの誕生)

2012-07-25 06:36

最近研究会とかカンファレンスに出ることがままある。そこで目につくのが学生さんの発表最後にこんな「スライド」があることだ。

プレゼンテーションの終了時には、できれば以下のような画面を表示しておきたいものです。(ご清聴ありがとう・・・でなくても、少なくとも一連のプレゼンとつながりのあるものを表示するのが良いでしょう。)

(図2)ご清聴ありがとうございました。と表示されたスライド。

via: パワーポイント119/グレースケールで白黒印刷でも格好よく

以前はみなかったからここ数年の流行だと思う。誰か「その道の人」がこのスライドがどのよう生まれてきたかたどると面白いのではなかろうか。

さて、Google先生に「ご清澄ありがとうございました」と尋ねれば、否定的な意見がごろごろと出てくる。私が一番説得力があると思ったのは以下の言葉だ

「最後のスライドは一番長く表示しておくものなのだから、意味のない言葉を書いておくのはもったいない」

確かにそのとおり。(多分京都大学の中村さんの言葉だったと思うが確かではない)

このとおり誰もがおかしいと思いながらも、この「礼儀」は広まっているようだ。思うに人間が社会で「礼儀」を学ぶというのはこういうプロセスをとるのではなかろうか。

・なんだかわからんが、「終わりの礼儀」のようなスライドをみた
・世間ではああするものらしい。自分のスライドにとり入れる
・研究室に返って「スライドの最後は"ご清澄ありがとうございました"だろう」とえらそうに説教する。ついでに「ご静聴ありがとうございました」と書いたスライドに「静かにきけ、という意味か」と説教をする。
・後輩が同じプロセスを繰り返し、習慣が広まる。

かくして「様式美」が誕生することになる。今やこのように断定的に述べるような人もいるようだ。

プレゼンテーションの最後といえば「ごせいちょうありがとうございました」です。最近いくつか連続してプレゼンテーションを聞く機会がありましたが、私の印象では「清聴」が多いように感じられます。

via: 静聴?清聴?プレゼンの最後にどちらを使うか:一般システムエンジニアの刻苦勉励:ITmedia オルタナティブ・ブログ

思うにコンビニ言葉「こちらが●●になります」も同じような経緯で広まったものではなかろうか。なんだか「丁寧」に聞こえる言い方だ。であればさっそく取り入れよう、とかなんとか。(「なります」に対する反論はキース中村氏の文章を参照)

このように「なんだかわからないがとりあえず前例にならう」というのは、我々が社会生活を営む上でほとんどの場合有益に働く知識だ。誰も社会的な礼儀を一から丁寧に教えてはくれない。自分で学ぶのだ。しかし時として

「なんでこんな事をやってるんだ」

という奇妙な習慣を生み出すことにもなる。

----------
などと誰も読まないブログで主張しても「ご清澄スライド」の撲滅には全く役にたたない。メリットといえば「馬鹿発見器」かな。その人がプレゼンテーションにどの程度真面目に考えて臨んでいるか、の尺度としては使えると思う。

というわけで、チンピラサラリーマンとしてはもっと過激な主張をしたい。どうせ誰も読んでないんだし。


「そもそもスライドなどというものは馬鹿げている」

突然何を言い出したかと言えば、、、確率10%くらいで12月にお会いしましょう。