学校の授業で「古典的スライド」を使うことについて

2013-01-18 06:54

Gozen の構想を練っているうちふと気がつく。

「黒板に書くというのはあれは深い意味があった行為ではないのか」

TEDでも立てかけられた紙にチャートを書いていく人がいる。未だに数学の世界では黒板に書くのが「常識」だという。フェルマーの最終定理を証明した人も、ポアンカレ予想を証明した男も黒板の前に立っていた。ハーバードの統計の講義がよいというので、最初の一回だけみた。黒板の前に立っていた。

「そうか。ハーバードの講師はパワーポイントというものの存在をしらないのだな」

と無邪気に結論づける人もいるだろうが、大多数はそう思わないだろう。ではなぜ彼らは黒板を使い続けるのか?

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PowerPointなどを使って作られた「古典的スライド」と比べると違いがはっきりする。「古典的スライド」にはいくらでも情報を詰め込むことができ、かつ再生産のコストはほぼ0。最初に作っておけば使い回しがきく。

しかも「綺麗な字」で書くことができるからますます情報を詰め込むことができる。「古典的スライドバンザイ」と叫びたくなるではないか。


問題は


これが「教師」の方から一方的に観た意見だということだ。そもそも黒板時代と比べて生徒が吸収できる情報というのは画期的に向上したのだろうか?そうでなければ、古典的スライドで講義を行う、というのは、受け取りての都合を考えない教師のエゴでしかないのではなかろうか。

板書を行う、ということは黒板上に書くことができる情報量を一定以下に抑える、という役割がある。「情報量を抑えるとはけしからん!」とか叫ぶ人もいそうだが、受け取り手がいることを考えれば、そうすることには意味がある。教師は内容を厳選する必要があるのだ。

もう一つメリットが有る。目の前に図やら文章やらチャートが構成されていくさまをみることで、学生はその過程を「追体験」することができる。

Khan Academyの動画は黒板にチョークで字を書くような見た目をしています。
見ている人はKhan先生の描くペンの動きを目で追いながら、解説に耳を傾け学習を進めていきます。

僕は様々な学習動画を見ていく中で、Khan Academyのスタイルがものすごく頭に入ってきやすいことに気がつきました。

なぜ頭に入ってきやすいか。
その答えは「追体験」にあります。

via: パワーポイントのスライドを使った授業が恐ろしくつまらない理由 | ShareWis Blog

この追体験、というのは重要な要素ではないかと考えているのだ。

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なぜこんなことを言い出したかといえば、先日のプログラミングシンポジウムでのパネル発表で何人かの先生方とこうした点について議論をしたからだ。

その際一番驚いたのが

「講義で古典的スライドを用いることの功罪」

についてまともな議論が行われているように思えないことだった。いやひょっとしたら「教育学」とかでやられているのかもしれないけど、論文を書くために私が探した範囲では見つからなかった。(もっとも世の中にはWebで情報を公開、共有することを良としない学問分野もあるということのので、探し方が悪かったということなのかもしれないが)

実験すれば面白い結果がでると思うんだけどなあ。古典的スライドで説明したときと、黒板に板書しながら説明したときで、生徒の理解度、記憶度がどの程度違ったか。何事も決めたくない人達は

「いや、それでは条件が統制されていない」

とかいって喜ぶんだろうけど。