どこまでが自分の範囲なのか

2013-01-31 07:02

先日、渡邊氏が「自己帰属感デザイン」という言葉について語っていた。それを聞いて考えたことをつらつらと書こう。

氏があげていたのはiPhoneのインタフェースだった。それまでのタッチパネルというのは

・押す
・システムが動作する

という仕組みがまるわかりだった。ところがiPhoneだと指を動かしたとおりに画面が動く。つまり画面が指と一体化したように感じているのではないか。

この「一体感」をもたせるためには、どの程度の反応速度とかそうした性能指標が必要、という研究はどっかでみたような気がするが忘れた。でもってここからが私が考えたこと。

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この一体感というのは「自分が何か動作をすれば、必ずシステムが動作する」という思い込みというか安心感でもある。最近は滅多にないのだが、昔のボールが転がる式のマウスを思い出そう。順調に動いているときはその存在を意識しない。つまり身体の一部のように感じている。

ところがボールにゴミが付着し、動きがおかしくなると、急にその一体感がなくなる。自分が言うことを聞かない機械を操作している、という意識になるのだ。

もっと怪しげな例を言えば、PC自体の動きがおかしくなる時も、そんな気持ちになる。順調に動いているときは全く存在を意識せず「ファイルはそこにあるものだ」と思い込んでいたのが、ディスクやらフィルサーバーがおかしくなった瞬間からその存在を意識しだす。つあまり「身体の一部」という感じがなくなったのである。

さらに妄想を広げよう。

少し混み合っている駅の改札を思い浮かべてほしい。人は一定の速度で流れ続ける。こちらもそれを「当然」と思ってあまり人との距離をとらず一定速度で歩いている。それを当然だと思っているのだ。

ところがそこで周りの速度を一切関知せず歩く人がでてくる。スマートフォンの画面を眺めているとか、ポケットをさぐって定期を探しているとかだ。

私はこうした「速度を乱す」人がいると滑稽なくらいに腹を立てる。その後自問する。なぜそんなに腹をたてるのかと。そして気がつく。私は「その場にいるすべての人は一定の速度で歩くべきだ」というルールを勝手に頭の中に作り上げていたのだ。

そのルールが守られている限り、周りの人混みをあまり意識せずにすむ。いわば自分が流れと一体化した状態だ。しかしそのルールが破られた途端、ものすごい不快感を感じる。それはマウスのボールにゴミがついたり、ファイルサーバーがいかれた時の不安感に似ている。

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というわけでこの「自己帰属感」というのはもっと広い範囲に存在しているのではなかろうか、と思うわけだ。ワンマン社長は、社員全体に対してこの「自己帰属感」を持っているのではないかと思うフシがある。もちろんそれは幻想なのだが、幻想というのは一度作り上げると壊すのが難しい。それ故自分に歯向かう(と社長が認識した)人間に対して異様な態度をとりはじめるわけだ。

この

「自己帰属感というのは、個人的な妄想に過ぎない」

という視点がMaturedということではなかろうかな、などと考えたりする。だから改札の前で歩くペースを乱す人がいても、腹をたてるんじゃないよ、と自分に言い聞かせたい。