某自動車部品メーカー子会社の思い出

2016-01-18 07:12

某自動車部品メーカーの子会社で働いていた時、いろいろ不思議な事象に出くわした。彼らの「刈谷の田舎者」という自虐と、「トヨタグループの一員」であるという部外者には理解のできないプライドが同時に存在している様は、同じ会社で働きさえしなければユーモアをもって眺められたかもしれない。

しかし私が接した他の大企業と際立って異なっていたのは、「自分のアイデンティティと会社の一体化」の度合いである。彼らのほとんどは見事なまでに会社と一体化していた。それゆえ「◯◯◯ー流のやり方」というのは-その内容を誰にも説明できないが-彼らにとってはヤハウェの言葉と同じように神聖不可侵なものだった。

「皆が最近感動したことを発表し合いましょう」という会議が定期的に開催されていた。そして参加者全員で「多数決」で最もすばらしい感動エピソードを決定し、勝者にはなにか表彰があったと思う。この催しについて自由に意見をかけというから

「多数決で感動の勝者を決めるのは実に◯◯◯ー流である」

と書いた。(当時の私は今よりも愚かだったのだ)この言葉はいたく◯◯◯ー出向者の機嫌を損ねたようで数ヶ月後に呼び出され

「批判は許さない。排除する」

と通告された。

なぜこんな昔の話をするかというと、最近こんな言葉を目にしたからだ。

Paul曰く:
人は、その人のアイデンティティの一部となっている事について、実りある議論はできない。
これすなわち、自分のホームに近い話題ほど論理よりも感情が優先されてしまうということ。

引用元:golang - [翻訳]なんでGoってみんなに嫌われてるの? - Qiita

私がやったことは敬虔なイスラム教徒に対して「コーランっておかしくね?」というような類いのことだったのだ。会社としての◯◯◯ーに◯◯◯ー社員が一体化している度合いというのは、敬虔なイスラム教徒がコーランと一体化しているとの同等と知るべきだった。私は物理的に断首されないだけ幸運だったと思わなければならない。

最近は聞かないが、ロッキード事件のころは「会社の生命は永遠です。その永遠のために、私たちは奉仕すべきです」と遺書を残しビルから飛び降りた敬虔な社員もいた。いや、そんなのは昭和の頃の話だと笑うのは間違っている。世の中には変化した場所と、そうでないところがまだら模様に入り組んで存在している。いまでもそうしたメンタリティをもった人はたくさんいるだろうし、そうした人間の存在を常に意識の片隅においておくことは有益だと思う。