シン・ゴジラにみた希望と絶望

2016-08-15 06:38

まともな映画評は表のサイトに書く。ここでは一点に絞る。

石原さとみをキャスティングした人間を無期懲役にしろ

それさえなければ、おそらく五十年先にも語り継がれる作品となったはずだった。しかし今のままではつねに「苦笑」つきで語らられる作品。

英語が上手とか下手とかそんな問題ではない。彼女の役柄が不要だと言っているのでも無い。問題はミスキャスト。演技だ。どう目を細めて見ても「上院議員の娘で野心満々の政治家」には見えない。「がんばって英語をしゃべっている日本のアイドル女優」以外の何物でも無い。

いや、普通の邦画だったらそれでも構わないはずだ。日本の芸能の最高峰は「AKB総選挙」なのだから。しかし石原以外のすべての登場人物が見事な演技を見せているなかで石原は

「世界最高峰のオペラの舞台上で、AKBが生歌を歌っている」

ような状況である。プロの演技者とはとても言えない。単なるアイドル女優。

今まで見たことがないような映画を見せてくれたことで庵野監督には感謝をせねばならない。そしてそれは

「日本にもまだ新しい映画を作ることができる」

という希望でもある。

それとともに「それであっても石原の侵入を防げなかったのか」という絶望も湧き上がる。数少ないマーケティグとの妥協なのか、あるいは庵野は信じられないほど日本以外に無知で無神経ということなのか。実際あの映画の中で米国人がでてくるシーンは皆おかしい。そこだけリアリティがないのだ。リアリティとはビニール袋にはいったカップうどんのカップのこと。

自分にそこを描く能力がないと自覚したならば助けを借りるとか、いやそれすらできなかったということか。いずれにせよ庵野監督には傷の責任も存在する。

どんな集団であっても、自分で作り出すことのできる人は、それ以外の人と比較して1%も存在していない。シン・ゴジラはオタク的こだわりが見事な創造に結実した稀有な例と見るべき。しかしそれが「ガラパゴス」であることも同時に見せつけられる結果となった。

---

まあしかしあれですよ。これで東京オリンピックの開会式の演出は決定。ゴジラとピカチュウとスモウレスラー。一企業の製品をかついで、、とか馬鹿なことを言ってる場合じゃ無い。