国の大きさ

2017-05-29 07:13

昔父が言った言葉が、未だに頭の中に残っている。鹿児島に行った時、「明治の元勲」たちの家がどこにあったかの地図があった。(私も見た)それを見ると、あの明治維新を成し遂げ、そのあとの近代化を推し進めた人たちは「小さな街のご近所さん」だったことがわかる、と。

中国がオリンピックで強くなった時「そりゃ世界人口の相当の数が中国人なんだから、どの種目でも強い人がいるよね」と思った。しかしどうも話はそう簡単ではない。なぜそんなことを今朝言いだしたかといえば、

埼玉県がイスラエル並の人口・経済規模を有していることに東京都民は危機感を持つべきでは

引用元:柞刈湯葉(イスカリユバ)さんのツイート

このTweetの意図を捻じ曲げて考えて見たい。政治的なことは除いて、IT関連のテクノロジーだけに注目したとしても、イスラエルの存在感は埼玉県の比ではない。我が家の愛車についているモバイルアイの製品、それにIntelのイスラエルチーム。埼玉にIntelがCPUの設計チームをおくなんて聞いたこともないし、埼玉から世界的Tech企業が誕生したこともない。

これはどういうことなのか。

姉は常にこう言っている。

「塾にいくとか、どの学校にはいるとかどうでもいいのよ。全部遺伝子で決まってるんだから」

姉は周りで子供達が育ち、どうなるかをずっと観察してきている。その結果からこう言っているのだろう。彼女の言葉には説得力がある。

しかし

もし姉の理論が全面的に正しいとすると、人口が多い国のほうが、優秀なDNAを持った人をたくさん抱えていることになる。(比率ではなく、絶対数として)ならば中国万歳、という結論になる。

しかし

サッカーでボスニア・ヘルツェゴビナに歯が立たない、とかイスラエルは埼玉県と同じ規模の人口だとか、小さな町のお隣さんの明治の元勲という話を聞くと、どうもそれだけではないような気がして来る。確かにDNAとその母数によるところは大きいのだろう。しかし

「氏より育ち」

も確かなのかもしれない。つまりこの社会は、適当な環境におけば大きく花開く多くの才能を見殺しにしているのかもしれない。

話は飛ぶ。少女は自転車に乗ってという映画がある。いろいろな面で心に残る映画だが、今日描きたいのは一点。サウジアラビアにおいて、女性がどれほど抑圧された環境にいるか。かの国では女性は自転車にのることが、大きな冒険なのだ。

何がいいたいかというと

世界中にこうして可能性をつぶされているDNAはどれほどあるのだろう?彼女たちの中には適当な教育を受ければ、それこそ明治の元勲に劣らぬ働きをする人たちがたくさんいてもおかしくない。しかしたまたまそれがサウジアラビアの女性として生まれただけで可能性は0になる。

時々考える。億万長者になったら、いろいろな国から留学生をひきうける基金を作りたい、と。たまたま先進国に生まれたがために税金を無駄にしている人たちに金を注ぎ込むより、その方がよっぽど人類のためになると思うのだ。

となると

「人の才を見抜く」というとても困難なことがキーテクノロジーになるわけだけど、どうですかね。人工知能で一発。シンギュラリティがどうのと喚いている人は是非そういうものを作ってほしいと思うのだけど、シンギュラリティ大好きな人はそもそも論理的にものを考えないから言っても無駄なのであった。