企業の行動規範

2017-07-26 07:26

多くの企業が「ビジョン」とか「行動規範」というのを掲げている。それ自体はとくに咎められるようなことではないが、現実と並べるとギャグになったりする。

(1)私たちは、関係法令及び社会規範並びに社内規程を遵守します。
(2)私たちは、個性と人格を尊重します。
(3)私たちは、社会の一員として環境問題への取組みを積極的に推進します。
(4)私たちは、公平・公正かつ透明な関係を維持し、公正な取引を行います。
(5)私たちは、親密なコミュニケーションを推進し真実を交信します。

引用元:UKCホールディングス : 行動規範

これが行動規範。でもってこれが現実。

「あずさ監査法人による監査の際に、当社滞留売掛金につき貸倒引当金計上などの指摘がなされることを危惧した当社の財務管理部門の管理本部C氏及び経理部門D氏は、こうした事態を会計処理に反映させるべく動いたが、当社グループによるC社支援の下で新たな事業展開を押し進めるA社長及びE氏を動かすところとはならず、むしろ、管理部門D氏においては、既に滞留していた売掛金の他にも滞留しがちであったC社グループに対する売掛金の回収につき、UKC香港の経理部門に対し、強いプレッシャーを与えざるをえない事態へ進展していくこととなった」

引用元:売掛金の回収偽造のUKCホールディングス、第三者委員会の調査報告書が「プレッシャー」まみれ : 市況かぶ全力2階建

私はおそらくアスペルガースペクトラムのどこかにいるので、文字に書かれた言葉や口から発せられた言葉を文字通り取り、その背後の解釈を怠ることが多い。そのアスペルガーが言うのだが、こういう現実がありながら、「行動規範」を掲げる神経というのはどういうものなんだろうね。

いや、もちろん企業における「行動規範」というのはお経のようなものだと誰もが思っているし、知っている。お経を唱えることに意味を見出す人が多いのと同様に、行動規範を掲げることは企業の常と考える人が多いのだろう。

私はおそらく一生経営者の立場に立つことはないだろうが、こういう無駄なことをやって楽しいというのはどういう心持ちなのだろう、ととても不思議に思う。経営者になると脳の構造が変化して、こういうことが楽しくなるのだろうか。

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というわけで、私は「ヒラ」の立場からこういう状況に巻き込まれたときのことを考えなくてはならない。最近山岳ベース事件のWikipediaを読んだのだが

メンバーの多くはこれらの虐殺を嫌がったが、「革命」のためには我慢しなければならないという意識で虐殺にかかわり続けたことが、関係者による回想からうかがわれる。

引用元:山岳ベース事件 - Wikipedia

読めば読むほどの虐殺の理由がわからない。それは東芝の粉飾決算と同じくらい理由がわからない。トップの動機がわからないとともに、ヒラとしてはこうした状況でどうやったら生き延びることができるのか、と暗澹たる気持ちになる。離れた安全な場所から批判することは容易だが、自分がこのグループにはいってしまったらどうやったら生き延びられるのだろう。

今のところの結論は「不真面目と無責任」である。後先とか仲間のこととか考えず「ちょっとトイレ」とかいって走り出すしか方法はないように思う。こういうことを考えるたび、幼い頃父がよく歌っていた「植木等の歌」が思い出されるのだが。つまるところヒラのサラリーマンの処世術とは植木等に尽きているのかもしれない。