理由を我らに

2018-02-09 08:03

今日の標題「理由を我らに」というのは、私が本家のほうで17年前に書いた文章の題名でもある。何が言いたいかといえば、人間は理由が大好き、ということ。偶然の神様の仕業をみても「これは我々が生贄を捧げなかったせいだ」と理由を見出してしまう。

それに気がついてから長い長い時間をかけ、ようやく私は「あたりまえの事実」に出会うことになった。

研究によれば、人は自分の無意識の思考、感情、動機を探ろうとしても、その大部分をそもそも知ることができない。そして、意識上で認識できないものが非常に多いため、人は「真実だと感じられる答え」をつくり出すことがよくあるが、それは往々にして間違っているのだ。

引用元:リーダーに不可欠な「自己認識力」を高める3つの視点 | HBR.ORG翻訳リーダーシップ記事|DIAMOND ハーバード・ビジネス・レビュー

要するに、実は人間が行うことの理由をほとんど知ることができない。なぜなら自分もわかっていないから。でもそれだと愛する理由がなくてさびしいので、適当に何かをでっちあげる。私のように人の言葉を文字通りに受け取る阿呆はそれを真に受ける。

というわけで、理由が欲しければそれをでっちあげてもいい。いいけれど、「何をすれば」それが解消できるだろう、と考えると良いと引用元の論文は言っている。

彼は自分の仕事を嫌っていた。多くの人はこの場合、「なぜ自分はこんなに嫌な気持ちになるのだろうか」という思考にはまるところだ。

 だが彼は、こう自問した。「自分を嫌な気持ちにさせる状況は何だろうか。そのような状況に共通しているのは何だろうか」。これにより、彼はその仕事ではけっして幸せにならないと気づき、資産管理という分野で、はるかに充実感を持てる新たな仕事に就く勇気を持てた。

引用元:リーダーに不可欠な「自己認識力」を高める3つの視点 | HBR.ORG翻訳リーダーシップ記事|DIAMOND ハーバード・ビジネス・レビュー

この例を読むと「それは”なぜ”じゃないのか」と思ったりもする。しかし確かに微妙かつ決定的な差異が存在しているようにも思える。

つまるところ、人間の判断とかその元となる(いかに論理的なことを言っていても、それは大半嘘だ)感情というのはブラックボックスのようなもので、荘子が看破したごとく「それは様々に揺れ動くが、なぜそうなっているのかはわからない」ものなのだ。

だから「なぜこうなっているのか」を問うても意味がない。ブラックボックスの挙動を観察するためには、異なる入力を与えそれがアウトプットに影響を及ぼすかどうかを観察するしか方法がない。

だから「異なるインプット」のために「何」を考える。今の仕事、今の職場、今の環境の「何」がそれほど堪え難いのか。もしそれが取り除かれたらどんな気持ちになるか。人間は多くの場合予想が下手だが、この予想はひょっとするとうまくできるのかもしれない。

自分が過去に行った判断、愚かな行為、ひどいフラストレーション。これらの本当の原因はその時わからないことがほとんど。私は記憶力だけは無駄によいので、おりにふれ自分が過去に行った「愚かな判断」を思い出す。そして20年くらいたってから振り返ると

「うん。あれはよくあるパターンだったよね」

と納得することができる。いやー、よく考えればあの女の子とうまくいかないのは当たり前だったよね、というかそうでなければ今頃ひどいことになっていたよね、とか。つまり「理由を知る」には20年かかるのだ。

だから「なぜ」を問うのは老後の楽しみとしておいて(ちょっと待て。20年後も私の頭脳はちゃんと働いているのか)今は「何を変えよう」と自問しよう。というわけで

「なぜ私はこんなに貧乏か」

と問うのではなく

「小銭をかせぐために、何をするか。出費を減らすために何をけずるか」

と考えよう。ああ、気が滅入ってきた。