幸せを感じるとは

2019-01-07 07:03

子供が小さかったころ、私の部屋であれこれ遊んでいた時の写真を見返すことがある。(Google Photo先生のおかげだ)こんな可愛い子供と一緒にいたのかと思う。

じゃあその時幸せでいっぱいだったかといえば、確かに楽しかったのだが「なぜずっと部屋にいる。たまには一人にしてくれ」と思ったとぼんやり覚えている。

平成の世の中だから、飢えることはあまりない。だから不必要なものをあれこれ口に運ぶ。分解してみれば、一瞬口の中に快さが広がった後には体重の不必要な増加、という結果が待っている。最近そのことを考え少しは食べる量が減ったと思う。

かくのとおり「幸せになる」というのはなかなかやっかいなものだ。

ノーベル賞受賞者のダニエル・カーネマンは、この区別を「人生で幸せを体験すること」か「人生を振り返って幸せを感じること」と言い表している。少し時間をとって、自分がどちらの幸せを求めているか、自問してみよう。

 このような区別は、意味がないようにも思えるかもしれない。結局のところ、幸せに過ごした時間は、幸せだったと思い出すことも多い。美味しい食事とワインを前によき友と過ごす晩は、幸せな体験であるとともに、幸せな記憶となろう。同様に、プロジェクトのメンバーにお気に入りの同僚がいて、内容も興味深いものであれば、取り組むのも振り返るのも楽しいだろう。

 とはいえ、この2つは必ずしも同時に連動して生じるわけではない。

引用元:体験と記憶、人はどちらの幸福を重視するのか | HBR.ORG翻訳リーダーシップ記事|DIAMOND ハーバード・ビジネス・レビュー

仕事で片付けなければならない厄介ごとがあったとする。それが終わるとなんだか幸せな気分になるが、すぐそれは大きな問題が消えただけで、普通の問題は残っていることに気がつく。

こういうことをあれこれ考えていると仏教の「人生皆苦」が正解なのではなかろうかと思い始める。と、頭の中で悟りに近づいた気になってもふと気がつけば不必要なお菓子など口に運んでいるのだが。