プレゼンテーションとは何か

2019-01-10 07:20

そもそもプレゼンの目的とは何か。あれこれ考えた末私は

「感情の共有」

というスローガンを掲げた。例えば理系の先生方からは

「何を言っているか。統計的手法が正しいかどうか、それを合理的に説明することが重要だ」

というお叱りを受けると思う。しかし私はそれに対する反論もちゃんと用意している。

「もしあなたが自分の研究を小学生に説明する時、統計的手法について述べますか?もし述べないとすれば、それはあなたの研究、およびそのプレゼンの本質ではないのです」

研究発表の場で、統計的手法の説明が必要だとすればそれはそれなしでは感動しない変態が聴衆だからである。

私はここでスローガンと述べた。なぜならこういう痛ましい事例が存在するからだ。

ユニットリーダーになる時の彼女のプレゼンの素晴らしさと、一方で持つ、極めて杜撰な面のギャップにひどく驚いていました。あの頃になると、主人は小保方さんには『根本的に研究者としての適性がない』と思うようになっていました」

引用元:“はじめは、主人は小保方さんのプレゼンに感心し、すごく優秀だ、と言っていました” 〈「笹井副センター長」未亡人インタビュー(4)〉 | デイリー新潮

全くの想像だが、私は小保方氏は自分が不正を働いたとは絶対思っていないと思う。だから自分の研究の素晴らしさに対する彼女の感情は正直なものだった。笹井氏はそれに動かされたのだろう。プレゼンがすばらしいとはそういうことだ。

しかし笹井氏に見抜けなかったことは、驚くほど多くの人間が、間違った根拠の上に確固たる信念を持ちうるという現実だった。だから小保方はプレゼンには成功した。その結果として、落ち度はあるが罪はない多くの人の命をうばったり大迷惑をかけたりした。

これはヒトラーのプレゼンテーションと相通じるところがあると思う。彼は確かに自分の感情を国民に伝えるすべに長けていた。そして例えばゲッベルスなどと違って、彼の感情は正直なものだったと思う。

問題は、その「感情」は間違った、破滅的な前提によっていた、と言う事実だった。

この手記がどの程度編集者によって編集されているかはわからない。しかし文面から伝わってくるのは、笹井夫人がとても理知的な人だということだ。

「もしSTAP細胞がなければ? もし小保方さんが理研に来なければ? うーん、それは、歴史に『もしも』があったら、というのと同じで言っても仕方がないことですよね。もし実現していたら、医学界にとって大変な貢献だったわけですし。

引用元:【印税700万円の「小保方」手記】“小保方さんとは、いつかいろいろと話をしてみたい” 〈「笹井副センター長」未亡人インタビュー(5)〉 | デイリー新潮

こんなセリフはなかなか言えるものではない。それだけに笹井氏が「プレゼン」によって命を絶たなければならなかったことが、痛ましく思われる。

という内容を追記して「プレゼンテーション失敗の本質」をアップデートするかな。。