ラベリング

2019-10-01 07:28

私はラベリングが大好きだ。今少し新しい環境にいるのだが、すでに多くのラベルを貼ったような気がする。

しかしこれまた長いサラリーマン生活を経たあとでは、そうしたラベリングが正しくない、ということをぼんやり意識している。

「まず人間を、我々と奴ら(Us and them)に分けた。あとは簡単だった」

かつてナチス高官だった人物が、なぜあれほど残酷なことができたのか尋ねられ、こう答えたというエピソードがあります。

引用元:「アス」は、たった今こうしてネットを見ている、私達の物語である。 | 橋口幸生 | 街角のクリエイティブ

人間にはいろいろな人がいるから、一概には言えないのだけど、「身につまされる」行為は躊躇することが多い。逆に「自分とは関係ない」と何かの手段で割り切ってしまうととんでもないことができてしまう。

この「自分とは関係ない」と割りきる手段の一つが「ラベリング」である。ユダヤ人だから。いや、そもそもユダヤ人って何と言われてもほとんどの人が答えられないし、答えがあったとしても意味を持たないし。しかし意味を持たないラベルであってもその影響は恐ろしいことになる。

というわけで

ラベルを物事に貼りたい気持ちはまあいいとして、そこから少し距離を置きたいと思うのだ。距離をおけばこれはなかなか面白いことでもある。ライバル校との伝統の一戦なんてのはラベルづけがないと面白くないよね。そうだよね、早稲田慶応たって、両方の学校に行っているひとだっているだろうし、そもそも卒業してから何年もたってるから意味ないよね、とかいうより早慶戦で盛り上がった方が楽しい。