トランプと西野がアート思考に教えてくれたこと

2021-01-23 07:59

トランプ信者が、米国の国会議事堂に不法侵入した。その事件の後でも米国民の三人に一人はトランプを支持していた。米国人以外の誰にとってもこの事実は理解し難い。しかしそれが事実なのだ。

さて

時を同じくして、日本では西野という人間が信者を集め自分が制作にかかわった映画のチケットを買わせていた。これも私のような人間には理解がしがたい。しかし「宗教ビジネスね」とラベルを貼っておしまいにするのは「アート思考」の考え方に反する。ありがたいことに信者の中で自分の考えを文章にして発表してくれている人、それについて書いた人がいる。

それを読み、トランプを支持する人間と西野の言葉を信じ、映画のチケットを売りまくる人間の間には共通の要素があるのではないかと考えるようになった。

カモになりやすいのは、「何者かになりたい」気持ちだけ強くて、具体的に何になりたいのか、ビジョンや武器を持っていない人たちなんです。

例えば「作家として何か賞がほしい」って人間ならば、己の文章力を磨くだとか、本をたくさん読んでストーリー(ロジック)研究するだとか、投稿サイトや賞に応募するだとか、目的のための手段がたくさん浮かんできます。

しかし80プペルの彼もそうですが、「何か変えたい変わりたい、でも何をどうすればいいか、どうしたいのか分からない」という人はたくさんいます。

そんな人たちにとって、社会的肩書があり、人脈もお金もたくさん持っている大人は「凄い人」に見えるんですね。
人脈やお金を多く持っている人間は、大体が「人と違う行動」をしてステータスを得ています。
その行動が善か悪かは置いといて。

何者かになりたい、何も持っていない人(もしくは何もしてこなかった人)は、その「人と違う行動をして成功した」って部分に惹かれてしまうんです。

自分もこの人から何か学んで、同じことをすれば変われる、と。

引用元:80プペルとカモられる若者|倉本菜生(ライター・編集者)|note

自分は特別な人間でありたい。凡庸な人間とは一緒にされたくない。

これは「アート思考」でも基本の心構え。そうでなければ人と違うアートを生み出すことはない。しかし問題は次のステップ。

でもどうしたらいいかわからない。

この問題に突き当たった時、「なにかすごい人がいる。その人のように行動しよう!その人の言葉に従ってみよう!」と思う人間が西野に金を貢いだり、トランプを支持するのではないか、と。「すごい」というのはある意味事実で、トンラプは歴代の大統領の中の屈指のユニークな大統領だったし、西野もなんというか、信者を食い物にする人間としては絵本と映画という新規軸を打ち出した。うん、こちらはトランプに比べれば独創性に劣るな。

こういう人を「信じる人」たちに、いかにトランプが嘘ばかりついているか、何もなしとげていないか、西野が作った(と本人は称する)絵本がクズか、映画がゴミか、といったところで無駄。なぜか

そういった人たちは彼らと彼女たちの頭の中にある「トランプ」「西野」と同一化しているから。人間は自分が攻撃されれば反撃する。それと同じようにこの人たちはトランプ、西野が批判されれば自分たちへの攻撃とみなす。信仰をより強くすることで、同一化を深め、そして自分が特別であるとの確信を強める。

「自分は特別でありたい。でもどうすればよいかわからない」

という心の隙に、景気の良い虚言が入り込むのだろう。それは手っ取り早くGreatになるための手段でもある。

なぜこれと「アート思考」が関係するか。

ステップ3「備える」の「平凡の沼」という章を書いていた。そこで「凡庸であることを嫌うこと」が必要だと書こうとしていた。

しかし

ふと気が付く。これではトランプサポーターや西野信者を煽っているだけではないか。となると問題は次のステップだ。

・凡庸であることを嫌う

・自分が今凡庸であることを認める

・凡庸とは何かを理解する

・凡庸から抜け出そうと一歩一歩足掻く

この2−4が重要なのではないかと思いあたったわけです。今日朝走っている最中に。

誰もが凡庸の沼からスタートする。そこからどう抜け出るか?沼の外にいるように見える人もいる。

「その人の言葉を信じよう」ではダメだ。養分にされるだけである。言葉を聞くのではない。言葉は全て嘘だ。行動から学ばなければならない。

「その人はどうやって沼から抜け出したのか」

を考える。トランプは嘘ばかりついて合衆国大統領になった。そこから学べるものはなにか。私が当然と考えていることにはどのような穴があるのか。西野は自分は絵本も映画も自分の手で作っていないのに、信者をたくさん集め、そこから収益を得ている。どうしてそれが可能なのか。

いや、本当のことを言えば、私は西野は単なる凡庸の沼の住人で、見習いたいとは思ってないんだけどね。

凡庸の沼から一足飛びに外にでることはない。足掻くしかない。足掻いても外に出られるとは誰も保証してくれない。(保証してくれたらそいつは詐欺師だ)できることは足掻くことだけ。

「平凡の沼」の最後にMan in the arenaをいれようかな、どうしようかな。いれるか。多分あの言葉は真実を語っているから。