五郎の
入り口に戻る
日付:2008/4/1
前回きたときは会社帰りだったが、休日の今日は家から出発である。子供をつれ電車に揺られる。川崎駅で降りると、目的地はすぐそこ である。
通 路を歩いていくと、なにやら若い女性の歌声が聞こえる。近寄ってみれば、数名の女性が声をはりあげている。その歌詞、節回し、歌い方は典型的な 「素人路上アーティスト」だ。何度かフレーズが繰り返される。
「前を向いているけど、時々振り返ることもある」
うん、そうだね。全くその通り。いつも不思議に思うのだが、なぜこのようなありきたりな事 ばかりを並べていられるのだろう。どこかで聞いたようなハモリ、どこかで聞いたようなコード。人前で曲を披露するのならもっと違う事をしてやろうと思わな いのだろうか。この歌声が今日、このコンサートホールの入り口で流れている というのはどこか面白く感じる。彼女達はおそらく音楽で生計を立てている訳ではあるまい。であるから音楽を聴くのも無料。これから大枚払って聞きにいくの はプロの中のプロの演奏だ。
ホールの入り口、ゲートの外ではものすごく厚い広告の束を 渡される。一応受け取る。チケットを渡すところでは、別の小さなパンフレット、広告を渡される。中にはいるとまず向かうのは託児コーナー。電車の中で子供達はとて も眠そうだった。私は
「おもちゃがあって、お姐さん達が遊んでくれるよ。ついたら寝てもいいから」
となだめていた。それを覚えているかどうか知らないが上の子供は既にして
「おもちゃどこ」
と言っている。写真を渡したり、あれこれお話をしたのち、扉があく。
「おもちゃあっちだよ」
と言うと、子供は一度もお父さん達の方をを振り返らず進 んでいく。
ク ロークに荷物をあずけると、さっそく3階に向かう。入り口のところで係の人が「よろしければご案内しますが」という。中にはいり階段を上る。「入り口の表 記が間違っていたようです」と言われる。そんなこともあるんだ、と思い後をついていく。すると今度はまた外にでて「すいません、こちらでした」と言われ る。案内された場所は結局最初に入った場所のすぐ近くでああった。我々が腰を下ろしてすぐ後、隣に男女が座った。会場を見回し「若い人がいない」と奥様が 言う。確かに年配の人ばかりである。もちろん私もその一員。チケットの値段が値段だから、やはり若い人には厳しいのであろうか、と思って いると、我々の左隣に、若いカップルが座った。場内に「携帯電話の電源はオフにしてください」とアナウンスが流れる。私はいつも携帯電話を鳴らさない設定 しにしているし、さっき
「携帯電話着信妨害装置作動中」
とか書いてあったから大丈夫だとは思う。しかしこういう時に限って滅多に使わないアラームが鳴ったりするのがこの世の常だ。電源 を切れば安心、とごそごそする。これは実に象徴的な行動だった、と気がつくのはコンサートが終わった後の事である。
4時になると楽団員が入場してくる。場内拍手である。コンサートマスターが入場する。また拍手。最後に指揮者のラトルが入場する。彼は 少しだけ観客の方を観て、やおら指揮棒を振り上げる。それまで鳴り響いていた拍手がたちまち静まる。この日のプログラムは以下のようだった。
ハイドン:交響曲第92番ト長調Hob.I:92 「オックスフォード」
マーラー:リュッケルトの詩による5つの歌 メゾソプラノ:マグダレナ・コジェナー
ベートーヴェン: 交響曲第6番へ長調作品68「田園」
一曲目が始まる。4年前に驚嘆した 「世界最大の弦楽四重奏」が目前で音を奏でる。第2楽章だったと思うのだが、オーボエの人の顔が真っ赤になる。大丈夫だろうかと心配になる。実はハイ ドンという人の曲はほとんど聞いた事がない、と気がついたのは最近である。
音に聞き入りながら、何度か雑念が頭をよぎる。4年前と比べ何かとストレスの多い環境にある私の頭には考えてもしょうがないことが何度 も何度も訪れる。最近は時間を区切り
「周りをみてみろ。今のお前は自由に何を考えてもいいはずだ」
と自分に言い聞かせる毎日だ。こうしてベルリンフィルを目の前にしても、いくつかのよけいなことが頭に顔を出す。いつもだったらそのま ま頭の中に居座り、何もない筈の時間を楽しくなくしてくれる。
しかし今日は様子が違う。少し頭を出したそれらはたちまちどこかに消える。見聞きしている演奏は私のような素人にとっても圧倒的なの だ。ラトルの指揮はどう観ても
「4拍子は、1、2、3、4とふりましょう」
と いったものではない。拍子をふっているのではなく、多くの場合、ただ手の動きで表現しようとしているニュアンスだけを指示しているように思える。ふと気が つくと指揮の手は完全に止まっている。演奏は途切れることなく(あたりまえだが)続いていく。この指揮者とオーケストラの関係はどのようなものだろうか。
「楽しい音楽の時間」はあっというまにすぎさり、拍手が響き渡る。少しの休憩の後楽団員が再び入場してくる。何人かトロンボーンを持っ ているのだが、タイプが様々である事に気がつく。またあまり観ない銀色の大きなチューバもある。
そ のあとには歌姫が入場。決して声を張り上げるような歌い方はしない。しかし改めて「人間一人の肉声がこのコンサートホールに響き渡っている」という事実に 驚く。5曲それぞれに参加する楽器が異なり、5曲目は完全に金管楽器が暇そうだ。もちろん「仕事終わったから帰る」なんてことはない。ピアノが鳴り響 き、ピアノの横には別の鍵盤楽器がある。同じ奏者が途中で移動して演奏するのだが、「ピアノに似た何か別の楽器」に座りながら、ピアノの前にあるなにかを 一生懸命とろうとしていた。
この曲で印象的だったのは「無音の時間」である。完全な無音でなく、ほんの少しの楽器が小さく、しっ かりした音を奏でる。場内にはぐっと緊張感が張りつめる。5曲めの終わりもそうした静かなものだった。音がいつしか途切れるが、ラトルは指揮棒を下 げない。終わったのか、拍手していいのか、と思っていると誰かが
「ブラボ」
という。その瞬間拍手が響きだす。
TVドラマ「のだめカ ンタービレ」に関してインターネットの掲示板では様々な議論がなされていた。世の中には「フライングブラボー」なる言葉があり、それはあまりほめられた行 為ではない、と。なんでも指揮者が指揮棒をおろす前に声をかけたり拍手をする行為がそう呼ばれるのだそうな。とはいっても「のだめカンタービレ」では演出 の都 合からか、千秋先輩はいつまでたっても指揮棒をおろさない。従って必ずフライングブラボーになってしまう。
この日「ブラボ」と言った人がそ れに該当するのかどうか私はもちろんわからない。モーツァルトの時代には、演奏中でも拍手が巻き起こるのが当たり前で、拍手で聞こえなかったときのことを 考え、わざわざ同じフレーズを何度か繰り返すようにしていた、とか読んだ事もある。こうした「良い事、悪い事」は時代とともに移り変わっていくの であろう。しかし「もう少し余韻を楽しみたかった」と思う人もいたのかもしれない。それくらいこの曲において静かさには力があったのだ。
こ こで20分間の休憩とアナウンスが流れる。ロビーにでてコーヒーを飲む。余韻さめやらぬことはまさにこのことだ。皆思い思いにワインやらコーヒーやらを飲 ん でいる。私はこの空間がとても気に入っていることに気がつく。それとともに、2曲目あたりから頭の中に雑音が顔を出さなくなっている事に気がつく。それく らい目の当たりにしている演奏は「非日常的」なのだ。これを聞かないで何を聞こうと言うのか。雑音に耳を傾けている暇などない。
時間は少し前後するが、パンフレットの中に、 PCでベルリンフィルの演奏が聴けるようになる、というものがあった。配信方法はYoutubeやニコニコ動画と同じく、普通のフラッシュ。やれ著作権管 理の都合があるから、Windows上のWindows Media Playerでなくちゃだめ、Macintosh の人は一昨日きやがれ、などということはない。
これにはいろいろな理由があるのだろ。一つには彼らは自分たちの価値は、決してネットや CDを通じて体験できるものだけではない、と自信を持っているからではなかろうか。日本ではゴミのような動画でも、その著作権管理 には異常なほど神経を使い、そのためであればユーザ利便などは些事のように扱われる。このすばらしい演奏を(有料ではあるが)著作権管理の緩い方法で配信、 とはよほど 自信がない限りできることではない。そして今日の演奏を聴いていると、それはもっともだと思えるのだ。この日この時間は”複製”できるものではない。
まもなく開演のアナ ウンスが流れる。席に戻る。最後の曲はベートーベンの6番、田園。今まで何度聞いたかわからないほどポピュラーな曲だ。しかし音が流れ始めるとそれが今ま で聞いた「田園」とは 全く異なることに気がつく。ある場面では弦楽器が高い音から最低音の音まで一体となってうねるように音が流れでる。これはいったいなんなの だ。低音の弦楽器がピチカートを奏でる。かなりの数の楽器が音を出しているはずなのだが、聞こえてくる音はたった一つだ。
そうした調べを聞 いているうち、自分がとんでもなく「非日常的」な時間に置かれていることを感じ始める。最近24時間、どこでもインターネットに接続できるように なった。それは確かに便利かもしれない。しかし「どこでも仕事ができる」故に時間にメリハリがなくなった。インターネットから興味深い情報を得られること も確かだ。ついそうした情報を見続けてしまう。
しかしその情報の質には限界があるのも確かだ。いかに知識と才能にあふれた人が書いたものであっても、短い時間で作られたそれはすぐ消 えていく。
そして気がつけば、自分が”ビットの泥沼”にいつも足をつけている事に気がつく。確かに面白く有意義。しかしそこには均一な泥のよ うな時間しかない。
しかし、今は全く異なった時間にいる。仮に携帯電話の電源を切らなかったとしても、”ビットの泥沼”などどうでもよく思え るのだ。今まで知っていたつもりの田園、ベートーベン、オーケストラと は全く異なるこの体験。もちろん私が文字で表現できるはずもなく、ただ聞き入る。
途中フルートがちょっと音を奏で、次にオーボエ、クラリネットというパターンが繰り返される。それはまるで小鳥が交互にさえずっている ようなのだが、ふと
「これだけ大勢の演奏者がいながら3名しか演奏していない」
と いう事に気がつく。その短く、しっかりした音は三者三様に見事としかいいようがない。後で聞けば彼らは木管楽器の演奏者として世界最高峰の3名とのこ と。フルートの人はかつて「フルートの王子様」と呼ばれたそうだが、なんだか足がよく動く。いや、もうこうなったら足でも手でもなんでも好きなだけ動かし てもらって結構だ。楽章が進む。第4楽章には、私のような年代の人間が
「岩城洋之。ネスカフェ、ゴールドブレンド」
とつぶやきたくなるようなフレーズがでてくる。ティンパニが大活躍。目は彼の手元に釘付けになる。
とはいえ私の頭の中には疑問符がでたままである。この曲は5楽章まであるはずなのだが、ラトルが指揮棒をおろしたのは2回だけだ。とい うことはずっと第3楽章なのだろうか。先ほどの「岩城洋之」は確か第4楽章のはずなのだが、しかしこの第3楽章どこまで続くのだ。
やがて音楽が終わりを迎える。拍手が響く。いや、もちろんすばらしいのだけど、これって3楽章の終わりじゃないの?と思いつつ後でパン フレットを見れば、3−5楽章は続けて演奏されるのだそうな。これで安心って何を安心しているのやら。
拍手はいつまでもなりやまない。ラトルは木管3人、一番巨大な弦楽器の人、その他何人かと握手を交わしている。ラトルが何度かでたり 入ったりし、最後に楽団員同士が握手を交わしてお開きとなった。
そ れから荷物を受け取ったり子供を迎えにいったり。子供は元気いっぱいで「(オーケストラの音が)聞こえなかった」と言っている。前回は確か演奏の映像とと もに音も流れていたはず なのだが。いずれにせよいつの日か子供達と一緒にこの演奏を聴く事があるだろうか。そしてその時彼と彼女は何を感じてくれるだろうか。
ホールをでて夕食を食べにいく。空いている席を探したり、注文しにいったりあれこれ。行為は日常のそれに戻ったが、ついさっきまで自分 がいた「異常 な空間」の衝撃は消えていない。入り口でもらったパンフレットの中に、ベルリンフィルのアジアツアーを撮影したドキュメンタリー映画のものがあった。そこにこ う書いてあった。ベルリ ンフィルのメンバーはみな苦悩と恐怖の中に生きている、と。
聞いている側があれほどまでに緊張感を感じる演奏、その音を奏でている側のプレッシャー、緊張感はどれほどのものだろう。
そうした彼らと彼女達の生活と、自分の生活を思い比べたり、帰り道はいろいろな事を考える。もちろん子供が寝ないようになんとか話しか
けたり、とかそういうことのほうが忙しいのだが。
私
たちがコンサートホールを後にするとき、出口近くに人がたくさん集まって拍手を送っていた。みればベルリンフィルのメンバーが退場していく。その
様子を見ながら少し考える。仮に私が演奏の道を志していたら、今日の演奏
をどう受け止めるのだろう。”ああなりたい”と考えるのだろうか。それとも道のあまりにの遠さに絶望してしまうのだろうか。