日付:1998/3/8
修正:1998/5/22
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私はこの漫画を3巻まで持っている。そこまで買ってつまらなかったから残りを持っていないのではなく、書店にないからである。
私はこの漫画が好きだ。なぜと聞かれても答えられない。この著者の前作、GOLDEN LUCKYはおもしろいけれどもちょっと気取ったところがあったやに記憶している。しかしこの「えの素」にはそうしたところは感じられない。1巻の表紙に著者が書いている言葉を引用すれば
デビューしたてのころ「エログロはやらない」と公言しまくっていたのが遠い昔のことのように思えます。
42才の会社員が主人公と書いてみようか。ではどんなストーリーかと言われれば説明のしようがない。意味不明のキャラクター、出来事が説明もなしにぽんぽんと飛び出すが最後まで読んでしまう。そうしたおもしろさ、ノリはどこか「マカロニほうれん荘」を思い出させる。(感じ方が似ている、ということで作品が似ているというわけではない)その命運までも同じようにならぬよう読者としては祈るばかりである。
週刊モーニングに不定期に連載されている。本を愛し、自分をしっかりと持ち、そして興味を持った物を調べなくては気が済まない教授と、その教授がふれあう人々を書いた作品。
この教授はいろいろなことに興味を持ち、そして学んでいく。その中で彼が一番興味を持っているのは人間である。最近の作品に「まだ私は人間というものがわかりません」と教授がつぶやく場面があった。「人ほど色々あるものはない」というのは亡くなった私の祖父の言葉だ。そしてこの作品には実に色々な人が登場する。
その中で教授はきちんと相手を観察し、自分の意見を持って相手に接する。教授の考え方は合理を基礎とするが、現実を軽んずるわけではない。だから彼はどんな相手ともコミュニケーションが図れるのだなと思ったりもする。イタリアマフィアのボスから、オカマの生徒、それに犯罪者の元教え子等々。彼らとのコミュニケーションを通して教授の、そして作者の人を見る目、というものが見えるような気がする。
印象に残ったエピソードは多すぎて書ききれないほどだ。教授だけでなく、他の登場人物にも印象的な人は多い。その中から一つだけ書いてみよう。
教授の元で学ぶ優秀な学生。彼女は米国への留学をするべきか、しないべきかの決断を迫られている。彼女に恋する誰もが振り向くような美少年。しかし彼はすごいずーずー弁であり、そのことを恥じて彼女に自分の気持ちを伝えるどころか、話しかけることすらできない。
その教授に悩みをうち明けた彼は、作品の最後に彼女に話しかける「お、おら」そこで彼女と一緒にいた女性の友人は「ぷっ」と吹き出す。彼女は「笑うな」ときっぱりと言い放つ。
次のコマ、二人が見つめ合うシーンで漫画は終わっている。この後二人が何を話すかはどうでもいいことだ。笑われるのを承知で話しかけた美少年、毅然として「笑うな」と言った彼女、どちらもが心に残る作品だった。それは現実の世界ではこうした「毅然とした」態度には滅多にお目にかかることはないからかもしれない。
この書評で、単行本になっていないものをとりあげるのは初めてである。「天才柳沢教授の生活」でモーニング誌上、大変な人気をとっている山下和美の15P読み切りである。
まず表紙の絵には、バーコードの腹がでた中年おやじが載っている。これだけでも何かただものならぬ予感をさせる。実際中年おやじがかっこいい活躍をする、という漫画は何度もみたような気がするが、そういうおやじというのはたいていの場合、ちゃんと髪の毛があるのだ。
この漫画では、余分な説明的なセリフはいっさいはぶかれているように思える。従って言葉だけ見ていくと意味がとりにくいところもいくつかある。しかしそんなことは些細なことだ。ちょっとした表情の一つ一つが、深い意図を持って書かれていることが伺える。歌声、それに楽器の音を表す祇擬音は過去の回想シーンででてくるだけだ。しかし最後の演奏シーンは、そんなものがなくても、激しい音や歌声が聞こえてくるように思える。ビジネススーツを着た腹の出たバーコードハゲオヤジがベースをひく姿がかっこよく見えるなんてことを誰が想像しただろう?しかしこの漫画はその「意外な姿」を見せてくれる。
「ストーリーの想像がついてしまった」という感想を述べる人もいるようだ。しかしそれがどうしたというのだろう?オヤジがステージ上でベースを引き始めるところで、昔高校生だった頃にファンだった(元)女の子が涙ぐんでいるシーンがある。このシーンを読むとき、私の心には何かの思いがよぎる。会社帰りの電車のなかで、立ったまま何度も読み返した。ふと目を上げるとガラスにぼんやりと自分のよれっとしたスーツ姿が。しかし"Hey, this is not bad"と思えた。その翌日の朝、久しぶりに顔をあげて、いつもの通勤路をあちこち見回しながら歩くことができた。年をとっていくと確かに失っていくものもある。しかしそうでないものもちゃんと存在するのだ。
この漫画を見て考えた。Rockとは魂の叫びだと。おやじだろうが、子供だろうがみながもっているものだと。演歌のリズムで泣く人もいるだろう。クラシックのリズムでたんたんと歌う人もいるだろう。そして、Rockのリズムで叫ぶ人もいるのだ。それは頭がバーコードになろうが、腹がでようが失われるものではない。
この漫画はずっととっておきたいと思っている。
蒼天航路(参考文献に戻る) (今週の「蒼天航路」へ)
原案李ハギン、漫画 王欣太 週刊モーニング連載。正史の三国志をベースとしつつ作者独自の世界を展開してる。
私はここで「作者独自」という言葉を使ったがそれは決して作者が好き勝手にフィクションの世界を構築している、ということではない。単行本の16巻には次のような作者の言葉が載せられている。
「わずか5千の兵で旗揚げし、反薫卓連合を呼びかけてから中原を制すまでわずか10年。この間の曹操の歴史は、まさに怒濤のごとしだ。私は溺れつつ、悶えつつもなんとかこの大河の中を生きている。そして”官渡”以降を見渡せば、曹操の流れの激しさは少しも変わらないのだが、河底はさらに深くなる。願わくば、この巨大な自由人の笑顔をつかまえたい」
私が想像するに、著者はまず正史及びその派生物(演義)を丹念に読んでいると思われる。正史の記述はとても簡潔だ。それを補う膨大な量の注釈も存在しているが本当に起こった事を復元するのに十分ではない。薫卓はわずか3000の兵を率いて洛陽に入城し、恐るべき暴虐を働くとともにたちまちのうちに漢帝国の実権を握るに至った。正史及び注釈に書いてあるのはこれだけだ。しかし瀕死の状態にあったとはいえ、漢帝国はそれまで400年も続いてきたのだ。それが一人の武将にそうも簡単に乗っ取られてしまったのは何故だろう?薫卓とは何者だったのか。
著者は自分にそういう問いかけをしたに違いない。そして描き出された薫卓像は圧倒的な「王」だった。著者は正史から読みとれる記述やエピソードをそのまま引き写したりはしない。その記述が何を意味するのかを著者なりに問い直し、そして自分のエピソードとして書き表す。
こうした姿勢は物語だけにとどまらない。著者は文字だけを使って語りかける小説にはどうしてもできないことをしてみせる。絵を使って語りかけることだ。薫卓が最初に描かれた場面を私は未だに覚えている。後に曹操の妻となる女が言う「私が見た男達の中で一番危険な男」という言葉をそのまま表したような姿だ。
こうした「意外な、そして圧倒的な姿」は薫卓のみにとどまらない。薫卓の前に現れる呂布は南洋系のイメージを持った巨人だ。孫権の父孫堅は青い目をしている。黄巾の教祖張角はイエスキリストを彷彿とさせる姿をしている。今までこうした姿を書いた漫画を見たことはないが、それら「意外な姿」は決して奇をてらっただけの物ではない。それらが著者が描こうとしている人間の姿として、とても適切なものと見えてくるのだ。
こうした「正史を元にしたエピソード」を創作する際に陥りやすい危険というのはいくつかあると思う。一つは世に存在しているはっきりとしたレッテル張りにはまってしまうことだ。「徳の人」「冷酷な独裁者」こうしたレッテルは誠にわかりやすい。そしてそのレッテルを貼った人間像を書くことはとても楽であるし、また陥りやすいところでもあるのではなかろうか。しかしそれでは読み手に深い印象を与えることはない。私が読んだいくつかの三国志物はこうした人物の描き方をしていたように思える。
逆の危険というのも存在する。魅力的な人物を描こうとするあまり「神」の姿を描いてしまうことだ。全知全能の人間というのは或意味魅力的なヒーロー像かもしれない。しかしながらそうした人間の姿は薄く見えるという点においては安易なレッテル張りと変わるところはない。
官渡の戦いの後この連載はしばらく休載された。そして復帰の第一回はこのような言葉で始まっている。
「武を越え覇を越えて人としての力を輝かせ続けた。ゆえに歴史はこの男を破格の英雄とよぶ」
著者は「武の人」だの「覇者」だのいう世の中にある安易な言葉で曹操を描こうとしているのではない。そうしたレッテルはあくまでもレッテルであり、便利ではあるが現実の人間を表すものではない。たいていの人間はどんなにあるレッテルに当てはまるように見えても遙かにその言葉が表すものより複雑なものだ。ましてや三国志に登場するような強烈な色彩を放つ人物であればなおさらである。
ここでこういう問いかけができるかもしれない。三国志をベースに独自の物語を展開している人はたくさんいる。そしてその著者達は(少なくとも彼または彼女自身の主観においては)ありきたりの既成概念にとらわれない人物を描くことを目指したというかもしれない。それらと「蒼天航路」の差はなんなのだろうか。
私は著者が実際の人間社会を冷静に観察し、それを自分なりに受け止めてその上で物語を構築している点だと思う。人間の社会というものは時代とともに変化するところと変化しないものがある。そして著者はその変化しない部分を客観的に見据え、それを三国志の形をとって我々に語りかけてくるように思える。
ともすれば書き手に都合のいいように事実も人間社会の構図もゆがめて文章とする作品のいかに多いことか。そうした作品は読みやすく、心地いいかもしれないが人の心を深く揺さぶることはない。私は毎週木曜日にこの漫画を読むたびに何度も私は「なるほど。こういう描き方があったか」と驚かされた。しかしそれらは単に驚かされただけではない。著者の「人間」に対する物の見方にも驚かされたのだ。だから私は驚くとともに何度も深い印象を受けた。
こうした姿勢での執筆はおそらく困難の連続だろう。冒頭引用した著者の「私は溺れつつ、悶えつつもなんとかこの大河の中を生きている。」とはこの著者の漫画家としての「戦い」を表しているのでは無かろうか。この文章を書いている時点では孔明が登場し、物語はますます発展しようとしている。そして著者の「戦い」も困難さを増すことだろう。無責任な一読者としては今後も著者の戦いがすばらしい結果を納めることを祈ることしかできないのだが。
(以下1999/6/16改訂前)
原案李ハギン、漫画 王欣太 週刊モーニング連載。大抵の三国志ものが「三国志演義」をベースにして曹操悪役かつ脇役、劉備、孔明善者かつ主役という立場をとっているなかで、この漫画は曹操を主人公として扱っている。正史の三国志を読んでみるとこの漫画のほうがより史実に近いような気がしてくる。(多少曹操がかっこよすぎる嫌いはあるが)
正史を含めた文献を深く読み、それを自分の物語として再構築している様がうかがえる。ほとんどのエピソードは文献にあるとおりにはなぞっていない。それよりもそれが意味しているところをくみ取り、自分の筆で再現しているように思える。「なるほど。こういう書き方があったか」と感嘆することもしばしばだ。
漫画というのは小説と違い、「ストーリー」と「絵」で語ることができる、という当たり前の事を今更のように思い出させてくれる漫画でもある。イエスキリストをイメージしたような張角、青い目の孫堅、南方系のような呂布。あげていけばきりがないほど「意外な、しかしイメージにあった」登場人物の「姿」を見せてくれる。
個々の登場人物の存在感、迫力は並ぶ者なく、この三国志を読むとほかの三国志が読めなくなる(除く正史)という副作用がある。昔歯医者に通っていたときに横山輝光の三国志を夢中になって読んだ覚えがあるのだが、蒼天航路を読んだ後で読み返すと全く気が抜けてしまっている。
思うにこの漫画には筆者の人間を社会を見る目が色濃く反映されているのではないか。人の世には時代とともに変わる部分と変わらない部分がある。その変わらない部分を描いているために正史からはずれないようにも思え、現代に生きる私たちにも語りかけてくるものがあるのではないだろうか。
秋月りす著、ワイドKCモーニング、講談社、OL進化論と同じ作者のデビュー作。作者の言葉によれば「大当たり前の不安とあせりと試行錯誤の記録のようなもの」だそうだが、十分におもしろい。確かにOL進化論の助走段階という感じはする。おそらくこの単行本発行に合わせて追加された書き下ろし部分があり、こことほかの部分を比較すると、作者がどのような「成長」をとげたかなんとなくわかる気がする。
「そら豆日記」というエッセイ漫画も収録されている。この漫画を読んでいると「ちびまるこちゃん」の作者が書いた自伝的エッセイをなんとなく思い出す。
秋月りす著。竹書房。上記と同じ秋月りすの著。4人姉妹を描いたユーモラスな漫画であり、OL進化論と似た要素もあるが、多少趣が異なる。4人の姉妹それぞれの個性を明確にして、その個性のおもしろさに重点を置いているように思える。これまた私の愛読書の一つ。
倫敦階段を下りて:(?)(参考文献に戻る)
高橋由佳利著、りぼんコミックス。これを読んだのは大学一年の冬だと思うが、とても感動した。卒業間際の高校生を描いた作品だが、「卒業間際」という’何もかも終わりになるのかもしれない。でも実は何もかわらない’というちょっと不思議な感じの時期の雰囲気がすばらしく描かれている。私はこの作者の長年のファンで、ずっと作品を読んできたがおそらくこの作品が私の目から見ての頂点だったと思う。私の弟の友人はこの作品を「完璧な作品」といったが、私もそれに同意した。
あまりに感動した私はこの作者にファンレターを書くという妙なことをやった。そして不思議なことにそのレターには返事が来たのである。思えば受験の時に「少しでも緊張をやわらげよう」と思って「それからのパスカル」という単行本を持ち込んだまではよかったが、周りの緊張感に押されて、開くことができなかった時から彼女の作品に対する思い入れは大きなものがあったから。(なんといってもこの試験会場は、毎年受験の時期に「今年も国公立大学の2次試験がはじまり。。。」とNHKのニュースでやるときに、放送されるまさにあの部屋だったのである)
先日ふとしたきっかけから彼女の消息を知ることになった。なんとトルコに住んでいてトルコ人の男性と結婚しているのである。私がトルコに旅行したときに、ある都市で「おれは日本人の女の子と結婚したんだよ」と話しかけられたが、まさか自分が好きだった漫画家がその女の子(どんな人か想像もつかないが)と同じ境遇にあるとは夢想だにしなかった。 思えばこの作品以降の彼女の作品、それらを眺めてみるとなんとなく「普通の恋する女の子」を生き生きと描いていた彼女がトルコに住むようになったのかわかるような気もしてくる。
ナニワ金融道(?)(参考文献に戻る)
週刊モーニング連載。私も多分他の多くの読者と同じような道を通ってこの漫画を読むことになった。まず「なんて下手な絵だろう」と思ってちょっと見てみる。すると内容に引きつけられて毎週読んでしまう。
大阪のサラ金「帝国金融」でのリアルな(多分そうだと思う)活動を描いた漫画。もと銀行に勤務していた人に「銀行の生活って○○(別の銀行を扱った漫画)みたいですかね」と聞いたら「ナニワ金融道を推薦します」と答えられた。
銀行と企業とは「共存共栄」または「生かさず殺さず骨までしゃぶる」のどちらも正解なのだと思う。銀行の方がいろいろ企業から「貢ぎ物」を巻き上げているのを見るとその感を強くする。なんたって金を持っているところは強いのだ。
先物取引、保証人、マルチ、やーさん相手の自動車事故など日常気になるようなトピックをいろいろと扱っていて、高校ぐらいの副教本にしてもいいと思うくらいだ。
この連載が終わった後、しばらく同じ作者が随筆風の短編漫画を書いていた。この漫画では金融以外のいろいろな話題を扱っていたが。。。。これが同じ作者かと思うほど内容が浅かった。物事すべからずその道のエキスパートは尊重するべきだが同じ人がよその道に足を踏み入れたときに何になるかは、気をつけなくてはならない。
- 沈黙の艦隊(?)(参考文献の項に戻る)
講談社、かわぐちかいじ著。週刊モーニングに連載され、大きな反響を巻き起こした話題作。「こんな題材を扱った漫画があるとは」と驚きながら読んだ覚えがある。最後に近付くにしたがい、主人公である海江田はだんだん「神」のようになっていく。神を描いてしまった著者がその後どんな作品を書くのか興味があったが。。
何かの雑誌に本物の潜水艦の艦長が「あれでは部下はついていきませんよ」と言ったコメントが紹介されていた。私が見たところ海江田は除いておいて一番存在しそうにないキャラクターは日本の政治家達と政治家の討論会を司会するマスコミのプロデューサーだ。
もう一つ特に印象に残ったセリフを上げておこう。海江田を司令塔に残して、山中副長指揮のやまとは空母との激突、沈没を避けるために潜航する。そこから生還したとき、副長がこういう「艦長。命令通りです。我神に祈らず」常に自分の意志を持って道を切り開いた人間が、危機に際して有害な神への祈りを排除したのは、ある意味あたりまえだが、このセリフはとても新鮮に響いた。
マカロニほうれん荘(参考文献の項に戻る)
鴨川つばめ著、秋田書店、少年チャンピオンコミックス。後ろのほうの「少年チャンピオンコミックス」紹介の蘭には「あふれるリズムとエネルギーでギャグの新境地を開いた話題の爆笑コミックス」という紹介文が載っている。
私はこれ以上に適切な紹介文を書くことができない。強いていえば、この漫画は「新境地を開いた」というよりは「空前絶後」の存在となった、ことぐらいだ。いろいろ意見を述べたい人はいるだろうが、この漫画の境地にはほかの誰も、いやこの作者さえもはいることができなかった。
そしてこの著者は「消えた漫画家」の代名詞のような存在となった。彼は文字通り燃え尽きたのである。その経緯はあちこちの本に記載されている。
この漫画のすばらしさを言葉で説明することはできない(たいていの漫画はそうかもしれないが)その事実にこそ誰もこの漫画の境地に近づけなかったことが示されているのではないか。
めぞん一刻(参考文献の項に戻る)
高橋留美子著。ビッグコミックスピリッツという雑誌に連載されていた漫画。下手なコメントを書く必要がないくらいの傑作。。当時大学生だった私にとって主人公の五代はなんとなく身近に感じる存在だったが。人物の細かい描写にも驚かされる点が多々ある。
主人公はアパートの管理人さんにあこがれているわけだが、同時に「こずえちゃん」という「普通の」女の子と、ともなんとなくつきあっている。 彼は自分が管理人さんにあこがれながら、こずえちゃんとつきあっていることになんとなく罪悪感を抱いているが、、、最終的にふるのはこずえちゃんのほうなのである。彼女はきわめて自然に「二股」をかけていた。そしてそのことを主人公に告げる時には「わーっ!」と泣きじゃくる。
「普通の女の子」がいかに自覚せずに残酷になれるか、この漫画はそういった読み方もできる。
曹操:(トピック一覧)トピック一覧経由関連部分を観てもらうと、私がこの人物に触発されて考えたことがあれこれ書いてある。本文に戻る
人間の社会というものは時代とともに変化するところと変化しないものがある:(トピック一覧)その線をどこで引けばいいのか私はまだ知らないが本文に戻る