題名:Clinton-part6

五郎の入り口に戻る

日付:1999/7/19

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1999/7/20

1999/8/30

1999/10/3

1999/11/5

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1999/7/20

先日実家にかえってごそごそやっていた。まずやったのがQuitckTimeVer4のインストールである。このバージョンからはリアルタイムで流れてくる画像を表示できるようになったのだ。

さて、試しにあれこれの番組を見てみると、画質は悪い物の結構ちゃんと動いて見える。なにか面白いニュースでもやっていないかと思ってFOX-Newsというのに合わせてみると、なにやら海岸線にそって、ずーっと上空からとった絵を流している。なんのこっちゃ?と思ってFOX-Newsはそこでおしまいにした。

次にひっくりかえってTVをつけてみる。実家はケーブルTVに加入しているからCNNが見放題だ。ふとみるとなんだか小型機の絵を使って説明をしている。ここにドアがあり、、とかなんとかだ。これまた「なんのこっちゃ?」と思って消してしまった。

そのうちまたインターネットでふらふらしだした。検索エンジンのサイトは最近はだいたいニュースの提供もかねている。あるサイトに言ったときに「ケネディJrの乗った飛行機行方不明」とかいう文字が目に入った。

その瞬間朝から何度か感じた「なんのこっちゃ?」の意味がわかったような気がした。

J.F.Kennedy Jr.と言えば、デトロイトに幽閉されていたときもその前もなんどかゴシップ誌でお目にかかった人物である。なかなかハンサムだが、どっか頼りなげな「いいとこのぼんぼん」という顔つきをしている。あれやこれやの有名人(その中にはマドンナ、とかジュリア・ロバーツとかもはいっている)と浮き名を流したあげくに、1996年に結婚した。それまではAmerica's No1. Eligible Bachlorの名前をほしいままにしていたものだが。その嫁さんは「意中の男性を射止める方法」なる本を執筆したらしい。中に書いてあることは「自分からさそっちゃだめ」とかなんとかある女性に言わせると「あたりまえのこと」ばかりらしいのだが、なんといってもAmerica's No1 Eligible Bachlorを射止めた女性の言葉だから重みがある。あっというまにベストセラーになったんだそうだが。

さて、CNNを見ると、これは特集番組を組んで、いつものRegurally scheduled Programもふっとばして大騒ぎである。日本人からみると米国人のKennedyという言葉に対する思い入れというのはちょっと理解がしがたい。実際その日のNHKの7時のニュースでは最後の方で「こんな事もあるよ」的な扱いをして報道していたが。

ところがかの国ではそうはいかない。映画"Match Maker"では、アイルランドでお見合いした女性がKennedyという名前だ、というだけの理由で婚約して米国に連れ帰る政治家がでてくる。そんな重要ファミリーに起こった遭難だから、画面にはどことなく沈痛な面もちをしたアナウンサーが写って特番が続いている。なんでもいとこの結婚式に出席するために自ら操縦桿を握って嫁さんと嫁さんの姉さんをのせて飛び立ったのだが、着陸直前に消息を絶ったらしい。

「同型機」をみてみると、その昔Stanfordで弟に無理矢理のせられた飛行機に毛が生えたような飛行機だ。私と同じ時期に仕事でPalo Altoに来ていた弟は、いきなり飛行機の操縦免許を取った。そして私が「遠慮しとくよ」と何度も断ったにも関わらず「乗せてやると」と言い、ついには私をおしきったのである。その日の朝私は父にメールを打った。

「かくのとおり、私は鉄郎の操縦する飛行機に乗ることになりました。もし何かありましたら、大坪家の息子どもが全滅となりますがそのときはよろしく」

父から帰ってきたメールはこうである。

「君たちの母上にその話をしたら”息子がふたりともいなくなたらさっぱりしていいわね”と言った。剛毅な母をもったことを幸運に思いなさい」

さて私たちの乗った飛行機は離陸し、そして神のご加護だか気まぐれだかのおかげで(私は何度か「そんなことはやめてくれ」と悲鳴をあげたが)無事に着陸した。しかしそのときのたよりない気持ちはいまでも覚えている。報道によればJ.F.K Jr.は一年前に免許をとったばっかりで「奥さん以外にのるやつなんかいねえよ」と冗談のネタにされていたとか。

さて、捜索は続いているが、なかなか新しい進展はない(あたりまえだ)しかしCNNとしてはこの特番をうち切るつもりもないようだ。そして次から次へとネタをだしてくる。飛行機の製造会社の社長の記者会見、CNNの航空専門家のコメント、ゴア副大統領のスピーチ、JFKの伝記作家へのインタビュー、Kennedy一族が住んでいるエリアからの実況中継、近所で無事を祈ってか電柱に黄色いリボンを結ぶ女性の姿、Larry King Liveに出演したときのJFK Jr.の様子、そして幼いJ.F.K.Jrが父の棺に敬礼する姿。その構成は見事なものだ。おまけに出てきた人間がみな実に流ちょうにしゃべる。日本でこんなことをやれば、まず無意味なコメントと感嘆詞を長々と繰り返ししゃべるアナウンサーと、ひっぱりだされたのはいいのだが、ろくにしゃべることのできない記者と解説者(これもあやしげな連中だが)の連続となってしまうのだが。

さて、そこに母がのそのそと起きてきた。「あんた相変わらず早起きね」と言った後に「なんだかケネディの息子の飛行機が行方不明になったんだって」と言っている。そこでひとしきり説明をした。TVに写ったJFK Jr.の顔をみて「五郎が言うとおりなかなかハンサムね。父親より、母親ににてるわ」と言った。その後写った母親の顔を見てみると、たしかに母親似だ。

さてそこから父親が「俺はどっちに似てるかな」とか平和な話題に移った。私もTVの方に視線を戻す。彼は2度司法試験(のようなもの)に落ちている。そして最近は政治関係の雑誌を創刊し、そこの編集長に収まっていたらしい。賢明な選択というやつだろうか。仮に政治家を目指したところであまりにも高名な父親と一生比較され続けるだけだ。

日没の時間となったが、まだ捜索は続いている。最初は「日没まで捜索を続ける」と言ったが、結局夜を徹しての捜索となったようだ。私はCoast Guard(沿岸警備隊)の人たちの苦悩を思った。これが普通の遭難であれば「日没とともに捜索うちきり、明日日の出とともに再開」ですむのだろうが、いなくなったのが超有名人で、かつ政界ともつながりのある人となればそうもいかない。どのような結果に終わろうと「捜索には全力を尽くし、落ち度はなかった」と言えなくてはならない。おまけにしょっちゅうTVに向かって「現在の進捗状況」を報告しなければならない。どこでちょっとしたへまをしても、その結果は恐るべきものになりかねない。

そんなことを考えながら私があいかわらずCNNを副音声で見ていると(同時通訳は正直言って助かることもあるのだが、このときは切っていたのである)両親は、

「五郎が帰ってくるとTVが英語になる。万里子(私の姉である)が帰ってくるとTVが変な話題ばかりになる」と言っている。

私の姉はワイドショーが大好きである。そして私はそうした話題が大嫌いだ。私がいやがることをして、私をからかうのが大好きな姉だから、私と姉が同時に実家に存在しているときは必ずチャンネルはワイドショーのほうに回る。(考えてみればこの表現も今となってはおかしなものだが)聞くにたえず黙って部屋をでていく私を見て姉は大喜び、という図柄である。

さて、そちらのワイドショーのほうであるが、母の弁によれば最近は「サッチーV.S.ミッチー」の話題ばかりだという。私としてはどちらもあまりたくさん見たくない顔であるが、まあそれが話題になっているのだからしょうがない。

サッチーなる女性がわがままだ、と話題になっているらしいが、私が知っている限り旦那のほうもわがままだ。私が労働組合の委員をしていたとき、野村元監督に講演をしてもらおう、ということになった。ところがその講演は2度相手側の一方的な都合で延期になったあげく、キャンセルになった。労働組合は「もう、こんなわがままな奴には頼まない」と彼の名前を労働組合推奨リスト(これがいかなるものか今ひとつわからなかったが)から消したあげく、川上哲治に講演を依頼したのである。

私は立場上この講演に出席したが、なかなか見事なものだった。当時「呂」という台湾からきたバッターが活躍していた時期だった。川上は「私なんかからみると、呂はまだまだ欠点が多いんですが、ひたむきさが人気を呼んで居るんですよ」と言っていた。そして確かにそれからしばらくして彼は全く打てなくなったのである。その道の専門家の意見というのは尊重すべきだ。その後彼がしゃべった内容は大変クラシックな礼儀を重んじるものだったかもしれない。しかしその言葉の重みは今でも覚えている。講演が終わった後に私がした拍手は心からのものだったが。

さて母はサッチーの方について何かしゃべっている。なんでも「あの人とんでもない人なんだけど、時々いいこと言うのよ。でも最近はひどい事やっているのがばれたから、返って反感をかっているけどね」だそうである。

私は言った。「お母様。”いいことを言う”ってのは結構簡単なことなんですよ」

時々先生の言葉であれば何でも無条件に尊重していた中学生のころが懐かしくなることがある。あのころはそれが”いいこと”であろうがなかろうが、耳も心も傾けていたものだ。それからだんだんと人間はひねくれていった。会社にはいってから何度も”いいこと”を言う上司にであった。しかし”いいこと”をする上司にはほとんどお目にかかったことがない。そこから「人間、言うこととやることは全く別」という信条を持つに至った私であるが、最近はさらにひねくらた考えを持つにいたった。

人の世に生きていると、その人が言っていることを録音して、寝ている間にヘッドフォンか何かで聞かせてやりたい人間に大変たくさんお目にかかるのである。つまり言っていることとやることが独立事象どころか、全く逆になっている人がたくさんいるように思えるのだ。そうした現実から帰納的に考えればどうも「”いいこと”をやたらという人間には慎重に相対するべき」ではないかと思えてくる。

母の言葉を信じるとすれば、サッチーなる女性もそのたぐいの人間だったのだろうか。まあ私は別に直接被害を被ったわけでもなんでもないからどうでもいいことである。早くこの騒ぎがおさまってあの顔をそこかしこで見なくてすむようになってほしい、と願うだけのことであるが。それとできればあのような人間を選挙でかつぎだすような政党はもう現れないでほしいものだが。

 

1999/8/30

親愛なるClintonはなんやかんやと言われながら任期を平和に全うしそうである。もうすでに話題は次の大統領選に移りつつあるが。振り返って日本だが「さめたピザ」と言われた小渕君もなかなか支持率をのばして元気にがんばっているようだ。さて、この与党だが、自自公などと、最近最近全政党与党化の傾向があるように思える。やはり日本の文化には大政翼賛会がぴったりくるのだろうか。

一方最大野党であるところの民主党は党首選挙を「さわやかに」やるそうである。この「さわやかに」という言葉は日本の党首選ではあちこちで聞かれる形容詞だ。何を言ってるんだ、と思うが米国の選挙で執拗に行われる「泥仕合」を目のあたりにしていると「さわやか」と称する位でちょうどいいのかとも思う。

さて管とかいう現職の党首は不倫疑惑いらい今ひとつ精彩に欠ける。一方の有力候補であるところの鳩山とかいう人は、正直何を言っているのかさっぱりわからない。「言語明瞭、意味不明瞭」というやつだ。民主党結成のころにはやたらと「市民、市民」と繰り返して居たがその内容はやたら「人間が主体」を繰り返す北朝鮮の主体思想と同じくらい「明確」である。

下馬評によれば鳩山氏が優勢とのこと。仮に彼が党首になれば、不倫でけちがついたとはいえ、管氏よりも遙かに(内部にはともかく外部に対しては)わけのわからない政党になるだろう。党の中の論理からすれば鳩山氏が待望されるのかもしれないが、外を見たときにはそれは致命的な結果となりかねない。最近「ああ。民主党ってのは社会党なのね」と思うことがある。こうした自分たちだけの内側の論理で動いていけるところが無能にして動脈硬化を起こしていた社会党とどこか重なる。あと少しすると民主党も誰も党首になり手がいないようになるのであろうか。

 

さて話変わって日本のスポーツ事情である。私は幼いころ巨人ファンで、20すぎてから「地元応援主義」に染まった人間だ。だから今は横浜・中日ファンである。こうして巨人以外のところを応援するようになると、いかに日本のプロ野球が巨人を中心に動いているかがよくわかる。大事なのは巨人が存在すること。(勝つことではない)勝敗は基本的に問われない。それで日本に住むファンは大満足だ。

またある日は辰吉とかいう人が出るBoxingの試合を見た。この試合、それに解説を聞いているとやはり日本のスポーツは演歌なのだな、とつれつれと思う。私は全くボクシングなど知らない人間だが、全く試合にならなかったことくらいはわかる。最初から最後まで日本人が一方的にサンドバックになっていた。

不思議なのはこの男は以前同じ人間と戦って全く同じ内容で負けていることだ。(そのときも私はたまたま見ていた)私のような素人が見ても「勝負にならない」と思えた試合をもう一度繰り返すとはいかなることか。そしてその試合に大観衆が集まり、声をからしての大声援が飛ぶとはどういうことか。私がぼんやりと想像するのは彼らは技や強さを見に来ているのではない。演歌を見に来ているのだということだ。お父さんの遺影をもってリングサイトから見つめる妻と子供の姿、「すごい気迫ですね」としか言えないアナウンサー。プロスポーツというのは、基本的に観客を満足させ、そしてお金を払ってもらうことで成りたっている商売だ。であれば必要なのは「観客が満足する何か」であり、それ以外ではない。

それ自体は悪いことでも何でもない。しかしそうした価値観のなかで育ちながら、それと正反対の「強さ、結果」を重視する文化の中で育ってきた相手と同じ土俵で勝負をするのはやめたほうがいいのではないかと思うのだが。

他の国と勝負といえば、「芸能」の世界も国内だけを相手にしていればいい、特殊な分野である。たとえば家電製品であれば、世界中の顧客を相手に、他国のの製品と競い、そして高い評価を得る必要がある。しかし日本のTV局は米国で高い視聴率をとることなど考えなくてもいいのだ。

日本の芸能の基本は「素人、幼稚、内輪受け」だと思っている。実際この基本が生かせる分野-Made in Japanの子供向けのアニメ、ヒーローは世界を相手に堂々と戦っている。しかし大人が見るような芸能はいくつか光るものはあるようだが、全体を見ればお話にならない。最近Ally McBealという米国の人気TVシリーズをよく見ている。そのストーリーの興味深さは日本の定型化していると思われる(あまり見ていないから大きな事は言えないが)TV番組とは全く異なるルールの元で育ってきた、という感じをうける。しかし芸能の世界も、どんな稚拙な芸であろうと、会場をうめつくした、若い女性が「かわいー」と叫べばそれで商売が成り立つ業界である。

かのごとく狭い範囲のルールだけで渡っていける業界というのはかなり多く存在する。そうした人たちは例外なく「もっと広い世界に進出する」と言うが、彼らの言葉ではなく、行動を見ていると自分達の強さが何であるか本能的に悟っている気もするのだが。時々間違って外にでてしまうとどこかのボクサーのように何度でもサンドバックになる。それでもそれに歓声をあげる観客は何万人も存在する。本人がそれをどうとらえるかはまた個人の問題であるが。

 

1999/10/3

今回東海村で起こった原子力燃料の臨界事故は恐ろしい物だった。早期に収束したのは不幸中の幸いとしか言いようがない。作業をしていて大量に被爆した3人は気の毒だが、彼ら及び彼らの監督者の刑事責任は免れ得ない。明白な被害者が自分たちだけだったのは彼らにとっても幸いなことだったかもしれないのだ。

この事故に関しては今後大量の評論がなされるだろう。私は所詮素人だから、ちょっと斜めからこの事件について書いてみたい。

某Web Siteにかかれていたことだが、この事件が起こっている最中、Yahoo Japanの掲示板に書き込まれた記事の内容は目を覆わしむるようなものばかりであった。曰く「情報操作がなされている」曰く「逃げなきゃみんな死ぬ」こうした事故に便乗してデマをまき散らしたい人がどれほどたくさんいるか。その人達がどこまで無責任になれるかを如実にしめしていた。インターネットはデマ情報の媒体としても大変優秀であることを示してしまったわけだ。

それとともにいわゆる夕刊誌の見出しもこれまたすばらしいものだった。野球のゴシップなどをまき散らすときの技術をフルに使い「原爆」とか「チェルノブイリ」といった見出しが並ぶ。(たぶん細かく読めば”?”とかがどっかに小さくついていたのかもしれないが)しかし逆に言えば夕刊誌が嘘とデマで作り上げられていることは皆が知っているからこちらのほうが罪が少ないかもしれない。

さて親愛なるこの週の週刊朝日の見出しは「死の灰が降った」だった。彼らが言う「死の灰」とは何のことなのだろう?本当に放射性物質が降ったのだろうか?彼らはそれを確かめた上で正確な情報と確信してその言葉を使っているのだろうか?それとも真偽は別とし、ショッキングな言葉をならべ、とにかく部数を稼ぎたいのだろうか?その言葉を無責任に使うことで、地元にどれだけの被害を与えるか考えているのだろうか?普通に考えられる信頼度を思えば、彼らの罪は、東京スポーツよりも、Yahooでデマを流しまくる人たちよりも遙かに重い。

冷静に事実を報道することで権威を高め、部数をのばす、というのがMajorなマスコミの論理であってほしいと思うのだが、今週号の見出しを見る限り彼らはもっと東京スポーツに親近感を覚えているようだ。

 

さて、今回自衛隊の化学防護班(?)なるものが出動を要請された。しかし彼らは何も手出しができなかった。理由は簡単。自衛隊は化学物質に対しては「或程度の」装備を備えているが、核物質なるものに対してはなんら備えがないからだ。これは彼らの責任ではない。私が知っている限り(少なくとも数年前までは)日本に装備されている兵器は「日本では、核兵器ならびにそれに類する物はいっさい使用されない」という大変めでたい前提で設計されているからだ。

そもそも自衛隊にとって「核」という言葉はタブーなのである。「核武装する」ことを忌避するのはわかるが、「核で攻撃された場合の備え」までもいっしょに絨毯の下に隠してしまっているのである。こちらが核兵器を持たなければ誰も核で攻撃などしないだろう、というまことにお人好しの前提がそこにあるのかもしれない。

この化学防護班なるものの内容もおそらく不十分なものではないかと思う。数年前、仕事でこうした化学戦に関する研究設備があると称されている場所に出張したことがある。その敷地の前では「市民団体」の方々が「自衛隊は化学兵器を研究している。すぐにやめろ」と大騒ぎだった。

自衛隊の方はそちらの方にぼんやりと視線を向けながら「研究たって、試験管が何本かならんでるだけなんだけどな。。そんなに一生懸命叫んだって誰も聞いてないって誰かいってやってよ」とぶつぶつ言っていた。来年度予算で、生物、化学兵器の防護手段に加えて核物質の防護手段の予算も計上するそうだが、仮にそれが認められたとしても、今回のような事故に対処できるまでに装備と訓練が整うまでにはあと何年もかかるだろう。

 

それまでの間はこうした事故の再発を防ぐシステムを整えることしかできることはない。何度も「こうした事故を繰り返さない」と言いながら事故が発生するのは原子力を扱う組織が完全に「内向きの論理」で動いてしまっている事を意味する。いつかの動燃といい、組織ぐるみの手順違反、情報隠蔽などは、その組織ではそうしたことが「正義」と見なされているからこそ発生することだ。となれば、そうした組織の「内向きの正義」をごっそり換える必要がある。

これを書いている段階では、JCOの信じられないようなずさんな経営がとりざたされているが、「何故そんな会社に発注した?何故そんな会社に営業を認めた?」という国の責任をおざなりにしてはいけない。彼らもまた「内向きの正義だけを貫く、現実から乖離した組織」なのだ。

こうした「現実から乖離した組織」を立て直すには、上から下までごっそりと人間をいれかえ、仮に専門的知識が限定されていても、より現実に近い感覚をもった人間を投入することが一つの手段だと思うがいかがだろうか。今回のような事件を防止するのに詳細な専門知識は必要ないのだ。健全な常識と現実を見る姿勢だけがあればいい。そしてそれが無かったためにこうしたとんでもない事故が起こった。こうした事柄に関しては「和を持って尊しとなす」の日本的なロジックは捨て、「泣いて馬謖を斬る」式の非情な法に基づいた論理を持ち出すべきだ。

 

1999/11/5

野球について書いてみる。今年の日本シリーズはあっさりとダイエーが勝った。うちの母は中日ファンだが最初からあまり日本シリーズに熱意がないように見えた。「なんで?」と聞くと「どうも勝てる気がしない。ダイエーのほうに元気がある」という返事だった。母の予想は実に正しかったわけだ。姉のところの子供達の「ばあちゃん」の影響で中日ファンだが、負ける日はわざわざばあちゃんちに電話をかけてきて「中日だめだねー」と言うそうだが。

さてそれだけではどちらかといえばMaking of my homepageに書くような内容だ。その直後に起こったことが大変興味深かった。MVPとなった工藤が「球団の対応に誠意が感じられない」とFA宣言をしたのだ。この文章を書いている時点ではこの話がどちらにころぶかまだ決まっていないが、結果としてどうなろうが、これほど「スーパーマーケット根性」を示しているものはないと思う。そして「場違いの正しい論理」を持ち出すことがどういう結果をもたらすか、ということについても。

アゴがはずれるほど低い金額から提示を初めて、じりじりと値段を上げる。「登板した火曜日は客の入りが悪いから、そこから必要経費を引くと、利益はこれくらい」と「スーパーマーケットの利益計算」を持ち出す。そのことが公になると「スーパーマーケットの論理」まるだしの記者会見を行い、自分の正当性-日本一という感激に水を差すことも、球団の名を落とすこともいとわず-を主張する。

たぶんダイエーというところでは、こうした交渉方法が「正しいこと」なのだろう。頷ける面もある。仕入れの業者に対して「今年はすばらしくダイエーの売り上げに貢献してくれたね。じゃあ来年は大判ぶるまいだ」などとは口が裂けても言わないだろう。相手が交渉のテーブルを蹴れないことを見透かし、低い金額を提示し、どこかで相手がおれてくれればもうけもの。値切るためには細かい数字と計算を持ち出しあれやこれやケチをつける。ダイエーは正直本業ではあまりうまくやっていないが、これでこそスーパーが成り立つ、という事なのだろう。実際今回交渉に当たった人間は、ホテル事業の建て直しで名をあげた人間だという。彼がどうやって建て直しをしたか伺えるという物ではないか。

しかしダイエーホークスは野球の球団であり、スーパーで売っているきゅうりではない。野球の球団は基本的には芸能の世界であり、細かい「日毎の売り上げ-経費=利益」という世界ではないのだ。売るのは夢や興奮という形や数値では表し難いものであり、よそよりも安くて質のいいきゅうりではない。その「ルールの異なる世界」に「スーパーマーケットの論理」を持ち出せばどうなるか?結果はごらんの通りである。彼らは全く異なる論理で動いている世界に、「自分の世界の正当性」を持ち出してしまった。

この「文化の異なる世界に「自分の世界での正当性」を持ち出すこと」はいつも危険と隣あわせである。今回のダイエーのようになることもある。しかしそれが「新しい風を吹き込む」事になる場合もあるのだ。どちらになるかはCase by caseだと思うが、以前新聞で読んだ工藤のコメントは興味ぶかかった。

常勝西武からきた工藤はダイエーの練習風景を見て「ここの選手は練習しない」と驚いたそうである。しかし彼はそれをいきなり持ち出しはしなかった。3年黙っておきそれから「そろそろ言わせてもらうよ」と言い出したそうである。かくのごとく仮に明らかに間違っている事項でもその世界の文化で「正しい」とされていることに異を唱えるのは慎重にせねばならないことである。私からすると、「練習をしない」文化の中で、それに流されることなく3年も口を閉ざす、というのはなかなかできないことのように思えるが。

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注釈

QuitckTimeVer4のインストール:何故突然こんな事をしたかというと、来るMacWorld New York EXPOでのSteve Jobsのプレゼンをみたいからなのだが。本文に戻る

 

Match Maker:(参考文献参照)この映画自体はまあ平和な静かな映画だったが。詳細は参考文献経由映画評をみてください。本文に戻る

 

人間、言うこととやることは全く別:(トピック一覧)たぶんこれは私にもあてはまる本文に戻る

”いいことを言う”ってのは結構簡単:(トピック一覧)私にとっては”いいこと”を言うのは簡単ではないが。本文に戻る 

日本の芸能の基本は「素人、幼稚、内輪受け」:(トピック一覧)あと「かわいー」もいれるべきだろうか。本文に戻る