日付:1998/4/15
更新:1999/6/2
英訳できない日本語「よろしくお願いします」「お世話になります」:この二つのフレーズは日本の社会生活ではとても頻繁に使われ、かつ重要(このフレーズを使うこと自体が)であるが、英訳は私にとっては不可能に近い。実際何をいっているか言葉で説明することができないのである。
その昔Stanfordで、日本で職を探そうという日系3世にかわって、日本の企業に国際電話をかけていたことがあった。その最初と最後のフレーズというのはおおよそこうである。
「あ。○○社さんでいらっしゃいますか。私○○ともうします。いつもお世話になっております。(中略)よろしくお願いします。では失礼いたします」
私の友人は米国で日本語の授業をとっていて、結構しゃべれる人間であった。実のところ英語がろくにしゃべれない最初の頃のつらいつらい米国生活は彼に大分救ってもらったようなもんだ。しかし後で彼は、別の米国人にこういう感想をもらしていたそうである。
「Goroが何をしゃべっているか全くわからなかった」
さもありなん。彼には私が使った「言葉自体は無意味だが、日本で生きていこうと思うとマスターしなければならないフレーズ」がたくさん存在するんだよ、ということを説明した。
彼は彼で、「お世話になります」というのがどういう意味か?と彼の両親や祖父母に聞いたのだそうである。すると"I am in your hand"とかなんとかいうフレーズがそれに相当するのだそうだ。
私はこのフレーズが実際に使われるのを聞いたことがない。従ってこの「訳」があっているのかどうかわからない。しかしこのフレーズが使われない、こと自体、"I am in your hand"が「お世話になります」とは別の「意味」をもっていることを示している。
最初に米国に行って仕事をしたときに、米国人技術者との最初のミーティングの後、同僚が留学経験のある先輩に対して「これからなにかとお世話になりますが、よろしくお願いします、ってなんて言うんですか?」と聞いていた。(私も同じことを聞きたかったかもしれない)
先輩の答えは「そんな英語はない」であった。今ならば私も同じ答えをすると思う。
「まあまあ。そう言わないで」:「まあまあ」というのは大変便利なことばで、なんだかわからないけど、対立関係をうやむやにすることができる。しかしながら英語(米語)にこれを訳すことはできない。"Well, well, don't be too harsh"とかなんとかいうのであろうか。
非常にやすっぽい日米比較論では、「欧米の文化は合理的、論理的であり、激しい論議もよく行われる。日本の文化はなれあいが多く、情でことをおさめようとする。論理性よりは曖昧性が多い」ってな論調で、「だから日本はだめだ。欧米はすばらしい」ってなことが書いてあったりする。
最近はさすがにこういう使いふるされたフレーズを見かけることは少なくなったが、こういう概念は人々の頭の中に深くしみついている。
しかしながら、「理屈とトクホンはどこにでもくっつく」と「馬鹿の考え休むに似たり」という二つの私の信条を組み合わせると「論議が合理的だからといって、意味があるとは限らない」という妙な信条を生み出すことができる。あほらしいこと、あるいはどちらでもいいようなことに理屈をつけて、論議をしたところで時間の無駄だ。所詮「世の中は合理的にはできていない」のだ。合理的にできていない物に、理屈をぶつけたところでなんともなるわけでもない。
洋の東西を問わずこういった無駄な時間のつぶし方には多くお目にかかるが、根が議論好きで、かつ「まあまあ」を知らないだけアメリカのほうが問題が大きくなることが多い。日本であればそれこそ「まあまあ。そう言わないで」で場をおさめることができる。いきりたっている両サイドもこの言葉を聞くとなんとなくおとなしくなり、とりあえず場をうやむやにすることができるのである。そして元々うやむやな問題をうやむやのままにしておくのは決して悪いことではない。
「頑張って」:これまた日本語ではよく使われる言葉だが英語で何と言えばいいのだろう?
実はこの言葉が「英訳できない日本語」であるというのは私の弟からのSuggestionに基づいている。言われてみれば確かに訳しようがない。
弟の説によると、ある人は"Work hard.But 'Gambatte' has the meaning of some respect."と訳したのだそうだ。しかしWork Hardなんていうと
「死ぬまで働け」
というイメージがある。日本語で「頑張ってね」という言葉が使われるのと同じようなタイミングで使われる言葉としては"Good Luck"があると思う。これまた別のある人は"Good Luck"といのは運任せの意味があり、日米の文化の差を表している、などと言っていたが私が思うにそれほど深い意味はないのではないか。こういう慣用句になると大抵の場合文字通りの意味などないのだ。
ただ一つ考えるのは、"Good Luck"というのは、相手が「頑張る」ことを前提として、その上で幸運が訪れることを祈ってますよ、ってな感じがあるのだろうか?
ちょっと話はそれるが、私が好きなのは"Wish me luck. I may need it"である。
「先輩、後輩」:日本で会社内の誰かを指す時に使われる言葉というのは「先輩」「後輩」「同期」「上司」などである。よくよく考えてみればこの「先輩」「後輩」というのは微妙な言葉であり、必ずしも年が上だから先輩というわけではない。大抵の場合会社に入ってからの年数を持って先輩、後輩の別を定義するようだが、そうすると中途入社の場合にはほとんど周りが先輩ばかりとなってしまう。
これがまた大学時代同じ学年にいても、片方は学部を卒業して入社し、友達は大学院を出て入社した場合等は話がややこしい。(実際私はこうした目に遭遇したことがある)新入社員にとってみれば入社3年目の先輩なんてのは間違っても呼び捨てにはできないのであるが(少なくとも○○重工の常識に従えばそうだ)友達は友達だ。今更大学時代「大坪」と呼び捨てにしていた相手を「大坪先輩」なんて呼べるものか。
実際日本社会では、敬語を使う、使わないといったところから年、あるいは経験年数の差違を非常に考慮する必要がある。米国の場合は簡単だ。英語の場合は、私の知っている限りでは、日本語の同僚よりはもう少し広い範囲の意味で、coworker, colleague, associate等が使われる。日本で言う管理職はManager,偉い方々はHigh level managerとかなんとかそんな言い方が使われる。基本的には日本で言うところの「先輩後輩」に相当する言葉は無しだ。従って日本のように「あいつは果たして後輩なのだろうか、先輩なのだろうか」などと悩む必要はない(そんなことで悩んでいるのは私くらいかも知れないが)
これは別に会社に限った話ではない。大学でも話は同じだ。私と同じ会社から派遣されて留学している人であって、仮に私より年上で、かつ私より早く米国にきていれば日本の定義で言えば「会社の先輩」ということになる。しかしこの言葉はどうやっても英語に訳すことはできない(少なくとも私には)英語で言うときは"My friend"である。しかし日本語で「友達」というにはちょっと語弊があるかもしれない。特に相手の事を個人的によく知らない場合には。
こうした言い方は何も日本だけに限った話ではないようだ。同じStanfordに来ていた韓国人が"My senior is..."とかいう英語をしゃべっていたのを聞いたことがある。ここで何かを公言できるほど韓国の文化に詳しいわけでもないが、あの国でもきっと同じ様な「先輩、後輩」の別があるのではないだろうか。
面白いことに、こうした経験年数による身分の上下は日本に来ている米国人に受ける場合もあるようだ。英会話教室のInstructorが、別のInstructorの事に言及したときに
「彼は私の言うことを聞くべきだ。なぜなら私は彼のSenpaiだからね」
という表現を使ったことがある。彼とそのInstructorの間には上司-部下の関係はないのだろうが、彼はきっと何か一言言いたいのだろう。実際米国式の「みんな同じレベルでお友達」というのはお互いの親密さを増すには有効であるが、時として無秩序を招く事にもなりかねない。先輩、後輩の序列というのは一見不合理のようではあるが、あれはあれでグループに秩序をもたらす働きもあるのかもしれない。
さて私は逆の方向の影響を受けて、妙な日本語を使うことが多々ある。私が○○重工で何らかの肩書きがついたのは入社11年位をへてであった(実はよく覚えていない)それまでにもグループのリーダーとしての役割を担ったことは何度もあったのである。そこで直面した問題というのが、「同じグループの他の人間を「部下」と呼んで良いものだろうか?」というものであった。実質的にはそうであっても、どこにも「大坪グループ」なんてものは存在していないのである。私はただあるプロジェクトを担当してる人間の間で「ではよろしく」と言われたのを良いことにでかい面をしているだけにすぎない。
従って最近では他のグループに所属している人達を「一緒に働いてくれた仲間」と呼ぶことにしている。つまり上下関係を省いて、米国式のcoworkerに近い日本語を使うことにしたのだ。
これは形式から見ても正しい表現であるし、私は結構気に入っている。グループに小役人のようなヤツがいたとすれば「なんで大坪なんかの指示を聞かなくちゃならないんだ。あいつはおれの上司でもなんでもない」と言うことも(組織の形式から見れば)可能だったのだ。そう考えれば(そうでなくても)一緒に働いてくれる人達には感謝の念をささげたくもなる。自分が普段でさえ間抜けな人間であり、かつリーダーとして見たときには更に大間抜けであることを痛感していればなおさらだ。
これは日常使われる日本語でもあるが、時々仕事でも顔を出す言葉である。
日常ではうまくいけば、○、だめだったら×等という風に使うと思う。仕事ではどのように使うかと言うと、日本の会社が好きな(少なくとも私が働いた○○重工とN○○関係、では大変広範囲に使われていた。ということは多分日本の官公庁でも広く使われているのだと思う)トレードオフ表という奴の中で使われる。
見たことのない人の為に如何にサンプルを示す。架空のS君とK君のどちらとつきあうか、というのを女性が検討した表だと思ってほしい(もちろん仕事ではこんな馬鹿な表はつくらないが、言っていることは同じことだ)
女性はこんな表層的な評価はしない、などという抗議はうけつけない。これは昨日私が電車に乗っていた時、前に座ったふたりの女性の会話の内容(聞きたくないが、こういう聞きたくない会話ほど耳についてしまう)をそのまま表にしたものである。
このトレードオフ表の神髄は「いろいろな評価項目を考慮し、総合的に判断して決定しました」と言えることにある。各項目について良ければ○、とってもよければ◎、今ひとつなら△、だめなら×をつけて、最後に総合判断をするわけだ。しかしその「総合的に判断」とは極めて作為的である。おまけに○だの△をつける基準というのも全く曖昧だから、この表はどんな結論でも導ける、というきわめて便利な特徴がある。
たとえば上の表では「いつも割り勘」が×になっている。しかし人によっては「せいぜい△」とする人もいるだろう。おまけに両者とも適度に○だの△だのがついているから、総合評価のところは所詮趣味によったようなものだ。○○重工では、一つでも×がついた項目は選ばない、という不文律があったが、N○○ではそれすらない。それどころか、○×△の中間の評価として○△だの△×だのが存在する。こうなるともう目茶苦茶である。
さて米国の企業と仕事をする時に、この和製トレードオフ表を持ち出した事を2回見たことがある。一度目は自分が持ち出し、2度目は先輩が持ち出した時だ。両方とも米国人の反応は一緒であった。
「このcircleやtriangleは一体なんなんだ?」
私はこのとき「○=good,△=so so , ×= bad」というのは日本特有の表現であることを知ったのである。
では米国ではこうしたトレードオフ評価はどうするか?私の知っている限りではこうだ。○だの△だのを使う代わりに具体的に数値を当てはめる。1-5のスケールでもいいし、-1,0,1のときもある。そして最終評価は、それらの総計となる。従って日本流のFuzzyな総合評価よりも若干客観的だ。しかしこれももととなる数値の決め方は所詮作為的なものだし、場合によっては「これは重要評価ポイントだから、得点3倍増し」のようなルールが登場したりもする。
もともとこうしたトレードオフ表というのは定量的に評価しがたい項目の比較に使用されるものだから、どちらにしても曖昧な要素は避けられない。しかしそこになんとでも意味を込められる○×△を用いるか、一応それ自体は動かしがたい数値と総計を用いるか、このギャップは大きいとも小さいとも取れる。
日本では挨拶をするときに頭をさげる。米国ではたいていの場合握手をする。この二つの異なる習慣-文化-はときどき映画のネタになる。よく見るのは米国人が握手をしようと手をだされているのに日本人が頭を下げてしまう絵柄だ。実際どうしたって日本の文化の中で育った人は米国人相手に握手をすべき場面で反射的に頭がさがってしまうのだ。逆に日本で頭をさげる習慣を学んだサミー・ソーサはホームランを打つたびにそれをやり「馬鹿にしているように見える」と相手ピッチャーから顰蹙をかった。かくのとおり文化の違いによる摩擦というのは厳として存在する。
さて、私がStanfordに居たときの指導教官(とうかとりあえず面倒をみてくれる教授)はGeorge B. Dantzigという人であった。最初この人に会ったとき、私は「けっこう年をとっているな。。こんなおじいちゃんで大丈夫だろうか」と思ったものである。しかしながら、実はこの人はOperations Researchの重要なテクニックである線形計画法の解法に名前を残している人であり、他の教授曰く「どうしてDantzigがノーベル賞をとらなかったのかわからない」というその道の有名人であった。
ある日おそらく日本人と思われる訪問者(なぜならその年学科に日本人は私だけだったから)がDantzigと談笑しているのを見つけた。彼はDantzigのサインをもらって、何度もうれしそうに"Thank you "を連発してこれまた何度も頭をさげていた。彼にしてみれば生ける伝説からサインをもらったようなものだっただろう。その喜び様は押して知るべしである。それを見ているDantzigは茫洋とした容貌を崩すことはなかった。彼はおそらく日本人の習慣をよく理解していたのだろう。
さて、ある日私は学科フロアーの廊下をてれてれと歩いていた。そこに向こうからDantzigが歩いてくるのに気がついた。私はその瞬間凍り付いた。
別にDantzigに隠していることがあったとか、怒られるネタがあったとかいうことではない。日本で廊下を歩いているときに担当教授とすれ違えば(よっぽど話しかけるねたがあるか、あるいは親しい関係で無い限り)黙礼をする、というのが私の習慣であった。これは会社で「顔は知っているが、階級が3つ以上違うような上役」とすれ違う時だって同様だと思う。
ところがここは(日本人の基準で言えば)滅多に頭を下げない国、米国なのだ。私はどうすればいいのだろう?私がパニックにおちいっている間に、向こうから生ける伝説&私の担当教授は近づいてくる。
半分硬直しながら、歩行速度が半分におちた私に近づくと、Dantzigは少しだけ笑みを浮かべながら言った
"Hi"
なるほど。その手があったか。。。感動に浸っている私を後目にDantzigは歩き去って行った。それから私は従来にも増して、米国で大変よく使われる軽い挨拶、「にっこり笑って同時に"Hi"」という習慣をマスターするために努力し出したのである。それから経験した範囲でもたいていの場合はこれで間に合うようである。ふと考えれば米国大統領相手でもこれで通る気がする。しかし英国の女王相手には出来ない気もするが。
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