題名:失敗の本質の一部

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日付:2004/9/12


「ノモンハン」より-初戦

ここからの数章ではノモンハン事件全般について記述したりあるいは敗因(未だにそれを認めようとしない人もいるが)を分析しようとはしない。その代わり事件全般の中で繰り返し現れた一つの要因について記述する。その検討材料としてアルヴィン・D・クックス著「ノモンハン」を使用する。

外蒙軍と満州軍の間で軍事的な衝突が起こり、ノモンハン付近に駐留していた第23師団は東支隊を送った。東支隊到着前に外蒙軍は撤退しており、出撃は空振りに終わった。

東支隊が帰還した後、再度国境を侵犯された(日本軍から観れば)との知らせによりより大規模な山県支隊を送る。その時の様子に関する著者の記述は以下の通りである。

「山県支隊長、東捜索隊長、小松原師団長、そのいずれも外蒙軍、ソ連軍と戦場であいまみえたこともがなく、多くの日本兵と同様に外蒙軍についてはこれを見下し、粛清に苦しめられたソ連兵については大して評価もしていなかった。分進合撃して、逃走しようとする敵を二重に包囲し、袋のねずみとするという日本軍の作戦は、机上計画としては見事なものであった。計画は日本軍一個大隊で攻撃をかけさえすれば、敵は退却するだろうと見ていた。最大の関心は、敵が逃げるのをどうやって阻止するかという点にあり、敵がふみとどまるとか反撃するとは予想もしていなかった。とりわけ東捜索隊長はまだ二週間とたたぬ以前に、混成の外蒙騎馬兵に向かって進撃し、あっさりとハルハ側に到着したこともあって、自信に満ちあふれていた」(ノモンハン一巻P145)

この時点において、日本軍はソ連軍より歩兵の数においては優勢であった。しかし敵を逃がすまい、という意図から出た複雑な作戦のため、各部隊を分散させ、局地的に数の上での優位を損なってしまった。そして戦闘の結果はどうなったか。

「東中佐は最後まで生き残った十九名に一斉突撃を命じ、大声で叫びながら壕から飛び出した。中佐は銃弾を胸部をはじめ全身に浴びて、その場で戦死した」

敵が逃げ出すに違いない、と「想定」して突進した東捜索隊は全滅し、山県支隊も甚大な被害を受けて敗退したのである。その結果について日本軍は自分たちなりの敗因解析を行う。それについてノモンハンの著者は以下のように述べる。

「驚くべき事に、決定的な要素とも言えるソ連軍地上・航空部隊の介入について、日本側の記録はほとんど触れていない」(ノモンハン一巻P185)

現実-戦闘-の中で決定的な意味を持った要因に日本軍がほとんど感心を払わなかった、という事柄に注意し、記述を先に進めよう。

この後関東軍は事態拡大を抑制しよう、という動きも見せるがソ連側の空襲によりその姿勢は一変する。

「圧倒的な一撃を加えればハルハ側右岸の敵を一掃できるという期待は、五月の経験によってもしぼむことはなかった。事実、力の政策が採用されればノモンハン事件は拡大せずにうまく処理できるだろう、というのが当時一少佐にすぎないのに作戦課の有力人物になっていた辻参謀の主張で、この意見が大勢を占めた」(ノモンハン一巻P208)

敵が空襲してきたのだからこちらも断固たる姿勢を見せる必要がある。この戦いに当たって日本軍は「再び」楽観的な予想をうち立てる。

「しかし関東軍は五月の戦闘のように敵を撃退することよりもむしろ敵の”退路”を断とうと考えていた。増強された日本軍の攻撃力は戦車、兵力、航空機いずれの面でも敵兵力をしのぐものと思われ、鶏を割くのに牛刀をもってする譬えがよく使われた。また戦いについての今ひとつの比喩的な語法である鎧袖一触という表現も使われた。」(ノモンハン一巻P214)

ではこの予想が何に基づいていたかと言えば

「前線やその背後にいる敵軍の本当の規模や質について、第二十三師団は恐ろしいほど無知であった。師団情報は今なお敵軍の主力を形成しているのは外蒙軍だと力説していたし、兵力についても例のごとく過小に見積もっていた」(ノモンハン一巻P215)

「北支那方面軍司令官杉山元大将は関東軍指令部への連絡将校矢部忠太中佐に、もし必要なら四個師団を裂いてもよいと関東軍に伝えるよう命じた。植田関東軍司令官は杉山大将の友情にあふれた助力の申し出に喜んで、矢部中佐を司令部作戦課に行かせた。矢部に会った辻参謀は「関東軍に師団を送ることは無用である。それほど”余った”師団があるのなら中国の匪賊討伐作戦でもされてはいかが」と言い放った」(ノモンハン一巻P215−6)

かくして兵力を増強し、23師団に第七師団の一部を加え、攻撃の準備がなされる。(その間に関東軍の独断による敵領内への空襲もあるが、それはここでは触れない)そこにある情報がもたらされる。

「準備がかなり進んだ六月二十九日になって航空偵察と地上斥候による奇妙な情報がはいった。敵軍が前夜来逐次撤退し始めたらしいというのである。特に多数の敵車両がハルハ河左岸に戻ったようであった。

この根拠薄弱な情報は、タムスク侵攻の”治療”効果がまだ残っているうちに小松原将軍と安岡支隊長に迅速な行動をうながそうと、タカ派関東軍参謀がでっちあげたものではないか、という疑念が出ている。他方この偵察報告は真正のものだったが、日本軍の分析担当者が敵の地上行動を誤解してしにまったようだという別の説もある。もちろん五月の東捜索隊の第一次出撃の際、外蒙軍が撤退した前例があった。小林少将も日本軍がわずかでも機会を失して栄冠を手にし損なってはならないという”焦燥感”にとらわれていた」(ノモンハン一巻P260)

かくして日本軍はハルハ川に貧弱な橋をかける。ハルハ河を渡ったところで多数のソ連軍戦車、砲撃にあい攻撃は停滞し、やがて撤退することになる。

本書ではここで一旦敗因をまとめている。その中の一項目を引用する。

敵に対する過小評価と自己に対する自信過剰

(中略)野村中尉に言わせれば、戦いに臨む日本人の態度はうぬぼれに満ち、非常に軽薄だった。攻撃にかけては他の追随を許さない日本軍正規部隊がひとたび姿を現せば敵は逃げ出すものと考えていた点では、インタビューを受けた人々は全て一致していた。」

ここまでで日本軍はソ連軍に対して2度挑戦し2度敗退したことになる。そしてそのいずれの場合においても「敵は撤退しようとしており急いで追撃する必要がある」と信じ込み、日本軍が「これだけ出撃させれば十分」と信じた兵力を送り出す。そして撤退などしていない優勢な敵によって敗れる。

あるいはこの2度の敗退は相手をよく知らなかった事による、と言うことができるかもしれない。では初戦でソ連軍の力量を目の当たりにした日本軍の思考方法にその後変化があったか。それについて見ていきたい。

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注釈