題名:2000年のゴールデンウィーク

五郎の入り口に戻る

日付:2000/5/22

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中編

いつかはやってくるものと知りながら、何度かは本当にそれが訪れるかと思う。しかし確かにその瞬間は訪れる。私は列を離れて館内に進んでいった。

さすがに中は人もさほど多くなく快適だ。通路を通っていくつかの展示室を回る。とはいってもいきなりフェルメールの絵が5点並んでいて、はいおしまい、というわけではない。フェルメールと同時期あるいは同じ土地で活躍した画家の絵も多数(というかそちらのほうが圧倒的多数だが)展示されている。

ちょっときもそぞろにそれらの絵を観ていく。どうしても気が先にいそぐがそれでもいくつか妙なところが印象に残る。たとえば「空想の回廊のあるデルフトの眺望」とかいう絵がある。これは実在の街並みをバックに仮想の回廊を描いているものなのだが、説明にもあるとおり確かに遠近法がゆがんでいる。唐突に遠近法を強調するかのごとく白と黒の市松模様にぬられた回廊といい、そのゆがんだ回廊だけ見ればなんだかちょっと想像力にとんだ中学生が書きそうな絵である。

などと思いながら絵を観ていく。いつものことながらこの美術展というやつの「並び方」にはとまどうことになる。一見人間が或方向から或方向に横に順序よく流れていくようにも思えるのだが、実はそうではない。そこかしこにたっている係員の人も「特に順番に流れているわけではありません」と叫んでいる。幸いにして私の身長は日本の平均よりも少し上だ。この優位が失われるのはもうそう遠くない未来のことだろうが、今のところはかなりの確率で人の後ろからでも十分絵を楽しむ(もちろんつま先立ちも加えてなのだが)ことができそる。だから興味のありそうな絵だけをみつけてはちょっとつま先立ちで覗き、そして次に進む、といったことを繰り返していた。

そのうち前方に大変混み合っている一部屋がある気配がしてきた。ということはこの美術展もそろそろ終わり、というかお目当てのフェルメールが近づいてきているようだ。まず目に入ったのは

「聖プラクセデス」

という作品である。これは他の絵の模写にフェルメールが少しタッチを加えたもののようで、それ自体は(私には)特に印象を受けるわけではない。ただしこれも35枚しかないフェルメールのうちの一枚なのかと思うとしっかり見ておこうという気にはなるのだが。

 

さてその絵が掛けられていた壁を越えると最後の一室である。

当然のことながらこれまでの部屋よりもはるかに混み合っている。青いターバンの少女は一番奥にかかっているようだからまずは他の絵を観よう。

実はもう一枚混んでいる絵がある。私はその絵を青いターバンの少女への興味と、「混んでいるからいいや」という気持ちからほとんど観なかったがこれは実はとんでもない間違いであった。このことについては後述する。

最初に見たのは「リュートを調弦する女」である。絵からはリュートの音(私はこの音がどのようなものか知らないが)が聞こえてくる、というよりはとても静かな印象をうける。それよりも印象に残ったのは「女」の顔の描き方だ。卵のような顔に薄いちぢれた毛髪。このような描き方に何か意味があるのか、あるいはこの通りであるのか私にはわからない。

次に見たのは「地理学者」である。「天文学者と対になっている。。」とかいう解説をちらっと見ながらしばらくじっとみる。よし。次はいよいよお目当てのあの絵だ。

絵の前は人がたかっている。係員が「混み合っておりますので、見終わりました方から順次場所をおゆずりください」とかなんとか言っている。そして実際その言葉通りに人混みの前の方から絵を見終わって離れていく人には

「ありがとうございました」

と声をかけている。本来絵はもう少し落ち着いた環境で見られればいいと思うのだが、置かれている状況を考えれば彼らに文句を言うのは筋違いだ。門外不出の作品が期間限定で日本で公開されているのだ。どうしたって混み合うし、混み合えばそれをなんとかさばいて多くの人に見てもらうことに彼らの責任があるのだから。

例によってつま先立ちになりながら後ろのほうからちらちらと見る。絵の全貌がとらえられるようで、今ひとつもどかしい。人が動いた場所にはいって前に進んでいく。さっきVTRでやっていた真珠や唇の光はいかに描かれているのか。もう少し前に出る。

今度は髪、あるいはターバンの部分の描き方に着目してみる。はっきりと描かれているのかあるいはぼんやりと描かれているのか。光と影が使われていて、それがとらえられそうで、とらえられない。思わずもう一歩前に出る。

気がつくと自分がほとんど最前列にまででてきていることに気がつく。あらためて全体を見てみる。どの部分もどれだけ近づいて注視してみてもとらえどころが無いように思える。少し唇を開いた、そしてふりかえった表情、瞳の輝き。暗い背景にうかびあがった少女の絵の前で私はしばらくじっとしていた。

私は本来やたらと神経が細かく(繊細ではない。肝心なところは抜けているから)そして小心者だからこれだけ混んでいる場所であれば自分が見たいものもそこそこにさっさとどいてしまうのだが、この日だけは違った。実時間がどうだったかは知らないが、絵をしばらく見つめていた。どうもはっきりしているようで、はっきりしない。許される最短の距離まで近づいているはずなのだが、どうにももどかしく見える。

しかしそんな状態もどこかで終わりにしなくてはならない。私はその場を離れた。後ろでは係員が「ありがとうございます」と言っている。

 

ロッカーに戻ると荷物をとる。出たところには売店が開かれていて様々なものがうられている。中には青いターバンの少女と同じイヤリングなんてものもある。私はひたすら青いターバンの少女を捜していた。すると写真であれば、ひび割れがやたらうつっていたり、あるいは明暗の調子が完全にどちらかにふれていたり。ついさっき見たばかりの絵とは似てもにつかぬ印象を受けることに気がつく。

それでは額にはいったものはどうだろうか、と思うとこれもとても同じ絵とは思えない。やはり実物は実物で、写真は写真なのだ。そんなことを考え、そして青いターバンの前でたっていた自分の事を思い出すと、

「絵を観るというのはこうしたことかもしれない」

と漫然と思い出した。私は絵心など全くない人間だから、今まで模写や学校の教科書にのっているものと、現物をみることの違いに対してあれこれ考えたり感じたりすることはなかったのである。逆に

「本のほうが解説がのっているからいいや」

ってなものだ。しかし先ほど感じたどうにももどかしいような気持ち、これは到底模写や写真からは生まれてこない。美術館をまわったり、あるいは大金をはらって絵を所有しようとしたり。そうした事は確かに意味があることなのだ。

 

などと偉そうな事を考えても所詮私はミーハーなのである。迷ったあげくに2000円の小さな額入りの「青いターバンの少女」を買った。

美術館のゲートをでる。長い長い列は外にまでつらなって、いまや最後尾につくためには美術館をぐるっと一周しよう、といういきおいである。朝一に来たのは正解だった。私は天王寺駅に向かった。

 

いつものことながら知らない場所というのは行きの道より帰りの道のほうがはるかに短く感じられる。「この道であっているだろうか」などという不安感もなく、まっすぐ歩いていけば駅にたどりつくとわかっているからだ。そうなるとどうしても気になるのがそこかしこから響いてくるカラオケの演歌である。

ところがもどかしいことに、その音がどこから響いてくるのか今ひとつはっきりしない。公園内に屋台でもでているのかと思ったらそうしたものも見あたらない。しばし辺りを見回して判明したことといえば、公園内を通っている公道(つまり入園券を買わなくとも歩ける通路)があり、そこから響いてくることらしい、ということだ。これはいったいどうしたことか。

公園のゲートをでたところで、一度はそのまま天王寺駅に向かおうかと思ったが、後ろから聞こえてくる謎をふくんだ演歌の声には抗しがたいものがある。私はそのまま回れ右をして「公道」を進んでいった。

 

どうやらそこではフリーマーケットのようなものが行われているようである。道にいろいろ店が出ているが、うっているのはどこかで誰かが使ったようなものばかりである。中には誰が聞くのだろう、という演歌の8トラックテープが山と積まれていたりする。しかし歌声はもっと先から聞こえてくるようだ。

 

そのうち歌声の音源にたどりついた。歌声は屋台のカラオケ屋から響いてくるのだ。察するに客がいない時には店主が独演会を開いているのである。まだ時間は早い。誰がこの朝っぱらから酒を飲み歌を歌おうと言うのだろうか。店主は何に気兼ねすることなく気持ちよさそうにがなっている。

 

私はしばし唖然としていた。だいたい生まれてこのかた屋台のカラオケ屋などというものは見たことがない。これは大阪特有の現象であろうか、それとも私が単に無知なだけであろうか。

しかしいつまでもここに立ちすくんでいるわけにはいかない。足を天王寺駅に向けると次の目的地、iWeekが開催されているOAPことOsaka Amenity Parkを目指す。

案内図に書いてある最寄りの駅こと春の宮駅に向かう。今度は天王寺からみて対称の位置から少しずれているからどちら周りで行こう、などと迷うことはない。再び車窓を流れる風景などみているうちに目的の駅に着く。少し歩かなくてはならないようだが、天気も良いし苦にはならない。途中水の上にかかっている橋をわたった。水を見てみると亀がのんびりと泳いでいる。

さて、目的とするビルについたようだが、いったいどこが入り口やら、と思っているとちゃんと親切に看板がでていた。入り口のカフェではAir Macで接続したiBookが貸し出されている。使ってみたい気もするがここは先を急ごう。エレベーターに向かうと前では「iWeekにご来場のお客様は。。」といって案内までしてくれる。

上に上がると会場して間もないというのにかなりの数の人がいる。私はふらふらと歩いて回った。いくつかのユーザーグループが出展していてなごやかな会話が交わされている。私はちょうどAppleScriptというプログラムを書くのに悩んでいたところだったので、Applescriptのユーザーグループの前で立ち止まった瞬間、或男に捕まった。

 

彼は自分が作ったユーティリティを販売しているようだった。彼はにこやかに自分が作ったプログラムの説明を続ける。この彼の説明のノリはちょっと私を畏怖させるものであった。確かに明るいのだが、どこか妙な迫力がある。私自身、駄弁で多弁のほうだが、ほとんど口を挟む暇もなかった。うむ。この怪しげなパワーはいかなるものか。あまりの迫力に押されて私は500円で一番安いバージョンを購入するはめになった。

その場から離れて少し息を整えた。果たして私はこのプログラムを使うことがあるのであろうか。しかしあの場から逃れるのにそれが一番有効な方法であったのも確かである。500円という金額が安い物であれば、それほど気にすることとも思えない。そうだそうだそういうことにしよう。

気を取り直してあれこれ見て回る。Lisaから始まって歴代のMacintoshが展示してあるコーナーはさすがになつかしい。Lisaについていた70MBというハードディスクがとてつもなく広大なものに思えた時とか、あるいはMacintosh一台購入を会社に認めさせるのにどれだけ手間をかけたかとか妙なことばかりが思い出された。

 

さて、このiWeekでは一つだけ明確な目的があった。ある部品を買おうと思っていたのだがそれが

「iWeek特別価格」

になっていないか、と期待していたのである。ところがここまで見た限りではあまり物販はしていないようだ。これははずれであったか、、と思っているとちょうど目の前にその部品(別の会社のものだが)をうっているブースにつきあたった。

目をこらして私がほしい物があるか、値段はいくらか、と見てみる。どうも私が想定しているより価格が高いようだ。わざわざ高い金を出して大阪から横浜まで部品を運搬するなんてのは馬鹿げている、と立ち去ろうとした瞬間にまた声をかけられた。

このiWeekというのは企業主催ではなく、ユーザーが自主的に開催するイベント、というのが売りである。私は全くその趣旨はすばらしいと思うし、展示しているのも同じユーザーなのだからせっかくの機会。お互いあれこれ語らって交流を深めればいいとは思う。

客観的に見れば店の人は私の要望を聞いて、あれこれアドバイスをしてくれたのだと思う。その中には

「いやー。商売から言えばこんなこといっちゃいけないんだけどなー。はははははは」

というものまで含まれていたから相手は商売っけ抜きで本音でしゃべってくれたのだろう。

しかしどうもこの一種独特のノリで迫られるとどこで言葉を返したらいいのかわからない。表面的には明るく妙に親しげなようで、どこか根本的に一方的な。私は耳からはいってくる言葉の表面上の問題なさ、と下腹に感じる違和感の間に克服しがたいギャップを感じ、しばらくアルカイックスマイルを振りまいた末にそこを後にした。今度はいくらなんでもその場所を立ち去るために5万円も払うわけにはいかない。

 

さて、これで大阪でみたいものは見たことになる。私は新幹線にのると名古屋の実家に帰った。

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注釈