題名:黒鍵白鍵

 

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日付:1998/8/15

最初の宴会

2度目の宴会まで

2度目の宴会


2度目の宴会

さてその日はまず待ち合わせ場所を探すところから悩まなくてはならなかった。

場所は名古屋駅周辺のなんとかいうレストランの類が集まったビル一階である。しかし私はそういうしゃれた類の場所には出入りしたことがないのである。

名古屋駅周辺で何度合コンをやったか数え切れないほどだが、最後の方は私が手配する場所というのはほとんど定型化してしまっていた。私は小心者なので新しい店にチャンレンジして大当たりをねらうよりも、まあ無難な店に行って「店の選定の失敗」により合コンが悲惨な結果に終わることを避ける方を選ぶのである。

じゃあ仲間と来るときに新しい店を開拓すればいいじゃないか、と思うが、よく考えてみるとここ数年合コン以外で仲間と飲む機会というのは皆無に近くなっているのである。若い頃は男同士でよくのみにも行ったが、友達がみんな結婚して子持ちになるにつれ、そういった機会はほとんどなくなっていた。

前述したように私は小心者なので待ち合わせ場所には異様に早く行く。特に待ち合わせ場所が初めて行く場所だったりするとその「時間余裕」はとんでもなくふくれあがっていく。この日はおそらく時間の45分前にはついていただろう。

まだ外は寒い季節だったが待ち合わせ場所はホテルのロビーのようになっていて、室内で暖房が効いている場所だから問題はない。私は空いている座席などみつけて本を読んでいた。まあ結構広い場所ではあるが、会うのは2度目でもあり、こちらがきょろきょろしていなくても相手はきっと私を見つけてくれることだろう。

そう安心しきって本に熱中していた。ふと気が付くと待ち合わせの時間になっている。あれ?相手のはどうしたのだろうか、と思ってまわりをきょろきょろ見回してみるとMTIの姿が目に入った。「おお。青年ひさしぶりだな」と言って挨拶をした。

彼の方に近付いていって周りをみれば女性も結構きているではないか。まずさっそくチョコレートをくれたRちゃんにホワイトデーのお返しを差し出した。相手は美しい日本の伝統に従って「こんなんことしてくれなくてもいいのにー」と一応言った後に受け取ってくれた。

さて今度はMちゃんの方をみて「いやー。お久しぶりですね。」などと話をしているとある女性のところにつれていかれた。私はこの前の宴会で「いやー。同期のバンドでボーカルをやってるんですよー」と吹聴していたのだが、この女性は某大学の3年生。バンドでボーカルをやっているのだそうである。これからはボーカル姉ちゃんとでも呼ぶことにしようか。

「それじゃあとはよろしく」と紹介されていきなり二人にされた。お互いバンドのボーカルって言うだけで何をしゃべれというんじゃい、と言ってはいけない。とにかく話のきっかけはできたではないか。私は

「どんな曲をやるんですか?えっつ?メタル。ええでんな。ところでQueenって知ってます?何?そんなに若いのに知っている。こりゃまた結構でげすなあ」

などとしゃべっていた。今こうやって自分の会話を再現してみるとまるで「坊ちゃん」に出てくる「のだいこ」のようだ。なんとなく自己嫌悪に陥らないでもないが、お互い沈黙しているよりはこの方がましだ、ということで割り切ってしまおう。なんといっても相手は私よりも14も年下なのだ。ひとまわりどころの話ではない。坊ちゃんに「こんな奴は沢庵石をつけて海の底へ沈めちまう方が日本の為だ」と言われようがなんだろうが、話が切れ目無く続くだけでもありがたいとおもわねばならぬ。

さてそうこうしているうちにだんだん参加者が集まりはじめた。「なんでもないんだよー」という雰囲気を装いながら、先生方が話している相手をちらちらと横目でみてみればこれがまたみなさま結構可愛い感じの人達である。世の中期待と不安は必ずワンセットでやってくる。「おお。これはいいかもしれない」という期待が高まるとともに「無職のおじさんと話をしてくれるのだろうか」という不安も高まってくる。よくよく考えるとこの不安は「可愛い子がいるので、かっこいいところをみせようと肩に力がはいる」ことからまきおこってしまうのではないか。なんだかんだ言っても男は女の子の前ではかっこいいところをみせようとするし、相手が「可愛い」となるとますます喜び、力を込めて「かっこよさ」をPRしようとする。考えてみれば何故顔の作りが一定の規則に従っていると人間は喜ぶようになっているのか考えるとおもしろいテーマかもしれないが、多分私には手に余る問題だろう。

などと余計な事をうだうだ考えていられたのは、何故か覚えていないが場所の準備ができるまでずいぶん時間がかかったからである。ここは店の準備ができるとお呼びがかかるシステムだ。ということはお呼びがかかるまでは我々はうだうだしてロビーで遊んでいるしか無いわけである。ロビーはおそらく送別会などもあってか結構なこみようであり、椅子の数はは十分とは言えない。しょうがないからたったまま本など読んでふらふらしていた。結果として前述した15分刻みの細かな待ち合わせ時間の調整は全く無意味となってしまったのである。

待っている間は「永遠にこのままロビーで空っぽの腹を抱えたまま死んでいくのだろうか」という妄想にとりつかれるが、必ず(予約がしてあれば)いつかはお呼びがかかるのである。「○○様」という係りのお兄さんの呼び声に導かれて我々はしゅくしゅくと宴会場所に向かった。

さて案内されたのは「カラオケ+宴会」のような部屋である。横にながーいテーブルがあり、掘り炬燵のような形で足をおろせるようになっている。例によって例のごとく最初の位置決めは結構大変だが、なんだかんだと論議の末に私の周りの人間の配置はこうなった。

私の右隣-ちなみに彼女はテーブルの一番端だが-は看護婦1号である。彼女はほっそりとした感じの可愛い子である。どう可愛いかは私の形容の力の及ぶところではない。左隣は看護婦2号、こちらは目のぱっちりとした美人タイプである。おまけに(これは話している最中に気が付いたのだが)胸部がまさしく垂直に隆起している。(これはMTI発の表現である)彼女の左隣にはMTIは座っている。

前に座っているのは先ほどホワイトデーのキャンデーを渡したピアノの先生ことRちゃんである。彼の横には元職場の同僚(♂)が座っている。

「かんぱーい」という発声の後に宴会となった。まず考えるのはどのような会話のパターンをとれば全体がまんべんなくもりあがるようになるかである。

今回の参加者を見ていると男女比はほぼ等しいが、必ずしも互い違いに並んでいるわけではない。従って私がどちらかと言うと好きな「二人の世界がたくさんできあがる」パターンは使えないことになる。そうなると「みんなで盛り上がる」パターンをとらなくてはならないのだが、机は大変横に長く、机の明後日の端のほうの人間と話ができるわけでもない。

うーむ。どうしたものやらと思っている間に、とりあえず周りのことだけ気にすることにした。机は横に幅が広いが、結構対面する人との距離もある。机をはさんで会話をするのはちょっと難しい。となればどちらか横の人としゃべるしかないわけだ。

左側の看護婦2号(胸部垂直隆起)は隣にMTIがいる。ということは彼女と話す役はMTIにまかせてもいいことになる。右側の看護婦1号は私が話さなければ幅広い机を挟んで対面のRちゃんか別の青年としゃべるしかない。となれば選択は明白である。

 

さて右に座っている看護婦1号は(この先生方との宴会はいつもそうだが)大変気楽に話してくれた。彼女が会話の途中で何度も「いや私も年ですから」などというので何歳だろう?と思ったがお互い神経を使い果たす様な会話の末に彼女は私より10歳若いということが判明した。なんと私より10若くてもこの年か、、などとショックを受けている暇はもとよりない。

私は頭蓋骨をかちわってみると、中に脳細胞が一個でぶよぶよしているような人間なので、「看護婦」と聞くと自動的に「じゃあ先生で誰かいい人いない?」と聞いてしまう。そしてこのときの相手の答えはどこかで聞いたような「医者はとんでもなくすけべだから嫌い」だった。なんでも彼女の勤めている病院は結構開放的で、宴会などでそこらへんで「ちゅっちゅ」している連中もいるとか。

合コンにくるといつものことながら「世の中には本当にいろいろな世の中がある」ということを思い知らされる。病院が全てそういう場所だとは言わない。看護婦1号は「他の病院と比較しても彼女がいま勤めているところは開放的」とは言っていたが、すくなくともそうした行為が特にとがめられずに行われる病院も存在するということだ。

彼女と何となく話を続けながら瞬間私は自分が社会人として育った環境を思わずにはいられなかった。「会社の宴会」というと私はいつも数年前に出席した新人歓迎会を思い出す。

 

私がいた会社では毎月1日には社内報が配布される。大抵の場合「社内報置き場」に帰るころまで置いてあるから好きなときに取りに行けば良い。それでなくても私が働いていた会社の社内報はつまらないので有名なのである。

しかしながら4月1日だけは様子が違う。新入社員の顔写真が掲載されているからだ。もっと正確に言えば4月1日付けの人事異動も掲載されてはいるのだが、誰もそんなもの見てはいない。昼頃に置かれる社内報をいかに人数分確保するかが、課に一人いる庶務の女の子の腕の見せ所、ってな話を聞いたこともある。そして個々人の手に社内報がわたると、仕事もそっちのけでそこかしこで人だかりができるのである。女性新入社員の顔写真を見て皆想像をたくましくして、この上なく無意味な会話にふけるのである。あたかも自分が配属を決定する権利があるかのように。

そして数週間がすぎると掲載されていた女性社員のうち誰かが(運が良ければの話であるが)職場にやってくる。みんなその人が気になって仕方がない。私がいた職場の男女比はおよそ数十:1である。従って女性が存在する、というだけでそれで一種の特異点なわけなのだが、それに加えてその女性とと頻繁にしゃべるということはそれだけで職場で「大変」めだつことになるわけだ。となると礼儀正しく小心な我々はどうしても女性と「必要以上に」話すのを避けるようになる。内心「お近づきになりたい」と思っていてもどうしてもそれができない、というじれったい状況が現出する。そうしたフラストレーションに満ちた日々がまた何週間が過ぎる。

さてようやくやってくるのが「新人歓迎宴会」だ。宴会の初めには誰もが聞いていないし、本人もやりたくはないんだろうが、義務感に忠実な○○重工の課長はひとしきり挨拶をする。そして乾杯のあと歓談となるわけだ。

最初は皆丁寧にならんで座っている。ここまではなんてことはない宴会の風景だ。酒が回るにつれて席を移動してあちらで話し、こちらで話しこみしているうちに私は異様な光景を目にした。

それは配属された女性新入社員を十重二十重に囲んで話を聞いている男性社員の山である。女性社員は中でひとり誰かが発する質問に対してちょっとためらいの色をみせながらも答えをしているようだった。そして彼女が口を開いて何かを言うたびに周りの男性社員は聞き入り、頭を上下に動かして賛成の意を表すのである。

私はその人垣が形成される過程を観察していたわけではない。しかし想像するに席が乱れるにつれ、ちょっと酒がはいって気が大きくなった男の子達は日頃から抱いている「お話ししたい」という願望を果たすべく彼女の周りに集まってきたのではなかろうか。そしてその人数が増えるにつれ「おれもおれも」という心理から人垣は加速度的に厚くなっていったのではなかろうかと。

そうした職場で13年働いた私にとって彼女の話は一種驚きではあった。今まで何度も「これからは大抵の事ではおどろかないぞ」と心に誓った物だが、その「誓い」の有効期限は今までのところだいたい3週間なのである。

 

さてこうした話をつれつれとしていると、彼女はなんとなく「変わっている」ことに気が付きはじめた。「何が」と言われても困るのだが、なんとなく反応がユニークだ。私が「変わってるね」と言うと「よく言われるんですけど、何が変わってるんですか?」という。それを聞いてこれはいつも私が言い返しているセリフと同じだと気が付いた。私が何故変人呼ばわりされるかということについては何度か考えたことがあるが、未だによくわからない。ふと彼女が「変わっている」と言われる原因と似ているのかもしれない、と思ったが「分からないもの」同士を比較してその同異を判断することなどできるはずもない。

 

さて彼女との会話は楽しかったがふと我に返るときがある。そして周りの盛り上がり状況を気にしてみたりもする。前に座っているRちゃんはとりあえず隣の男と楽しく話しているようだ。こちらは問題ない。ふと左側を気にするとMTIと看護婦2号の間で必ずしも会話がスムーズに言っているわけではないことに気が付いた。今からこの理由を考えてみると、田んぼの中の工場で働いている青年には彼女の容姿ははちょっと刺激が強すぎたのかもしれない。となると彼女が黙って座っている姿を見ているよりは、ちょっくら話しかけてみようかという気になるのである。

彼女は前述したように看護婦1号の友達である。類は友を呼ぶとはよく言ったもので(この使い方が正しいかどうかわからないが)こちらの彼女も大変話しやすい人であった。聞けば元は同じ病院で働いていたが今は訪問看護なるものをしているらしい。一人で患者さんのお宅に訪問するそうだ。私はその話を聞き、彼女が仕事で負っている責任の重さを考え、とても自分にはできないと思った。病院で働いている場合と異なり、患者さんとその場で相対しているのは彼女一人なのである。「彼女」の判断の誤りがとりかえしのつかない事態を起こすかもしれないのである。そしてこの場合かかっているのは患者さんの生命かもしれないのだ。私は仕事をしているときなんだかんだとぶつぶつ言っていたし、ミスも山ほど生産したが、せいぜい客先からの電話で寿命が1時間づつ縮むくらいで別に人の命に関わるわけではない。(自分の命には関わっている気がするのだが)

彼女は一見すると大分派手な外見である。顔は美人系だし何度もかいているように胸部は垂直に隆起している。最初話し始めたときは「何かの間違いが30万回くらい発生してこの人を正面からだきしめる機会が到来したとしても、彼女と私の胸骨の間にはかなりの距離が存在するだろう」などとたわけたことをつい考えたりする。しかしそういう話を聞いているとそういう外見のことはさっぱり忘れてしまうから不思議である。

 

さて、私はこのときまで結構ご機嫌であった。私がご機嫌であるということは、がばがば飲んでいるということである。そのうち誰かが「誰か歌いなさいよ」と言い出した。こういう場面になると必ず知らない同士では「お先に」「お先に」と美しい日本の伝統にのとった譲り合いが行われる。各個人が心の奥底ではどれほど自分が歌いたい、と思っていたとしてもである。またその結果歌うにしても「イヤー。困っちゃったなー。誰も歌わないんだもんなー。しょうがない。私が犠牲になって歌いましょう」という枕詞をつけなくてはいけないのである。

私が自分でも変わり者かもしれない、と思うのはこういうときである。私は「歌いたいなら曲を入れろ。歌いたくねえなら黙ってろ」という「奇妙な」信条を持っている。他に歌いたい人がいるのにマイクを奪う気は毛頭ないが、自分が歌いたいときに必要以上に躊躇するつもりもない。しばらくの間マイクの押しつけあいは続いていたが、そのうち先生方の「ボーカルの大坪さんかボーカル姉ちゃんが歌ったら」という声が大きくなってきた。こうなるとチョイスはなくなる。ボーカル姉ちゃんの方をみて、しばらく指の差し合いをやったあげく私が歌うことになった。

曲目は女性がいるときの定番ザ・タイマーズ(RC-SUCCESSION)のDay Dream Believerである。相手がどんな人達か分からない時はだいたいこの歌である。ちょっと前の記憶がある人であればこの曲がCMで使われたのを知っていて「あ、この曲知ってる」と言ってくれる。さらに万が一その人が忌野の声を聞いたことがある人であれば「声が似てる」という。本人は意識しているつもりはないし、自分の耳に入る声はそんなに似ていないのだが何故かこういわれることが多い。とにかくまずしょっぱなの曲としては(私にとっては)無難な選択なのである。そんなことを除いても私はこの曲が大好きだ。原曲は米国のMonkeysの同名の曲だが、忌野の作詞の才能はこの歌にも遺憾なく発揮されている。最後の「ずっと夢みさせてくれて有り難う」は同じ様なフレーズの繰り返しの後で何かを物語っているように思える。

さて調子に乗って歌い出したが、すぐに自分でもまともに歌えていないことに気が付いた。先ほどからご機嫌でがばがば飲んでいたのだが、酔っぱらっていることもあり酒がそんなに回っているという自覚が無かったのである。しかしながらこの歌声を聞く限り全く酩酊している状態のようだ。

次に歌ったのはボーカル姉ちゃんである。彼女は確かに上手だがなんだか歌い方が演歌調のような気がする。別にこぶしがまわっているわけではないのだが。。しかしながら歌が終わった後はピアノの先生方の賞賛の言葉が続いた。

 

さて次に誰か歌うのかなーと思ったが誰も歌わない。歌っている間はみんな(一応)曲を聴いているのでおしゃべりはお休みになる。会話にちょっと間ができたので、再び右側の看護婦1号の方を向いてしゃべることにした。というか看護婦2号も含めて3人で仲良くしゃべろうとしたのである。彼女たちはお友達だからあおれば結構いろんな話がでてくる。わーわー言っている彼女たちを見ていると本当にこの二人は中が良いのだなあ等と考えてしまった。

彼氏の話になったとき(看護婦1号には彼氏がいるのだ)に看護婦1号が下を向いて。「うん。結構楽しいですよ」と言った。その顔があまりに素直で可愛い笑顔だったので私は思わずけらけらと笑って「いやー。そんな可愛い顔されるんだったら聞かなきゃよかったな」と言った。看護婦1号は下を向いたまま「なんですかーそれー」とわめいていたが私はけたけたと笑い続けた。これほど素直に彼氏の話をしてうれしそうな顔をする人はひさしぶりに見たような気がする。

看護婦1号も笑われてばかりではいけない、と反撃を試みようとしたのだろう。「そんなに私の彼の話ばかりして、あなたの彼女の話はどうなんですか?」と言った。

ちょうどその時ピアノの先生の声が響いた「もう時間ですから、とりあえずここは出ましょう」というやつである。そこで私たちは席をたった。

下へ降りて行くと「はい2次会に行く人」という相談がなされていた。看護婦1号2号はどちらかが明日早番なのでもうお帰りだという。看護婦1号は別れ際に「大坪さんの彼女の話が聞けなくて残念だったわ」と言った。

1次会でもう少し時間があれば、あるいは彼女が2次会にきて私と話す時間があったとすれば「春先なのに晩秋を思わせる表情をして視線がどこか遠くをみているような35男」の姿を見ることができたはずである。

「彼女」

良い言葉ではないか。彼女ができるためにはまず誰かを好きにならねばならぬ。次にその相手と両思いにならねばならん。私にとってこの二つの関門が同時に開く確率を計算すればそれは相対性理論ではなく量子論が支配的な役割を果たす位の微少な値となるのである。こういうことを言い始めて早何年なのだろうか。。。。ああ。地平線ってどこだろう。虹の向こうには夢があるのだろうか。銀河の中心にはブラックホールがあるのだろうか。そしてまだ見ぬ果てには何があるのだろう。

しかし幸か不幸か彼女は私がこういう戯言を言って、遠くを見つめ出す前に視界から去っていった。私が「よくよく考えればこの1次会では大変素敵な看護婦さんに挟まれて座っていた。この千載一遇の幸運に恵まれながら何もしないとはなんたることか」という考えに思い当たるのは翌日のことである。私の女性に関するセンサーは蛍光灯のようなものである。「そういえばあの子は素敵な人だったのではないか」と気が付くのはいつも宴会が終わった翌日だ。そしてそういう出会いに限ってリターンマッチでの再会というのは存在しない。当然の結果としてその後数日間はへそをかむような思いをすることになる。

 

しかしながらこのときの私はまだそのことに気が付いていない。にっこりを笑って看護婦1号2号に別れを告げると、他の皆と一緒にしゅくしゅくと2次会に向かったのである。

 


注釈

「坊ちゃん」:(参考文献一覧)みなさまご存じのClassic。そのつぎに出てくるのは6章からの引用である。本文に戻る

 

男は女の子の前ではかっこいいところをみせようとする:(トピック一覧)これは別に人間に限った話ではなくだいたいの生物の雄はみんなそうだ。本文に戻る

 

私が何故変人呼ばわりされるか:(トピック一覧)この原因についての一つの考察が「何故著者近影が選択式か」に書いてある。本文に戻る

 

歌いたいなら曲を入れろ。歌いたくねえなら黙ってろ:(トピック一覧)このポリシーが日本の社会で大変に受けが悪いのは分かってもらえると思う。「3度まで進められても丁重にお断りする。それ以上進められたら断るのは返って失礼。そこで”やむ終えず”歌い出す」というのが美しい日本の伝統であるし、某漫画によると韓国で酒を勧められた時の作法でもあるようである。本文に戻る

 

私の女性に関するセンサーは蛍光灯のようなものである:(トピック一覧)逆に宴会で話している最中から「これはいい」と思うと後でだいたいはずれだったりする。おまけに蛍光灯が後でついて「わおーん」とほえている宴会に限って、リターンマッチが無かったり、あってもお目当ての女性が来なかったりするのである。本文に戻る