題名:駄目について

五郎の入り口に戻る

日付:2000/9/9


駄目について (2000/10/2)

最近昼休み「それだけは聞かんとってくれ」というサイトの文章を読んでいる。このサイトには300を超える作者いわくところの「駄目雑文」が掲載されており、読んでいる間にこらえきれず

「くくくうっつ。ししししし」

と声をあげることもしばしばだ。ちなみにこれは私の笑い声である。人目をはばからず思い切り笑うか、人目を気にして会社では読まないかどちらかにすればいいものを両方成し遂げようとするものだからこのような異様な笑い声になってしまうのであり、いつもこのように笑うわけではない。

 

さて、とにかくこのサイトにある文章は面白く、かつ興味深い。そうなると作者であるところの"Keith 中村」氏。ええい、First nameが横文字で、名字が漢字だから”をつけるべきか」をつけるべきか中途半端になってしまったではないか。とにかくこのサイトの作者であるところのキース氏(この書き方ならば「」でくくれるから気が楽だ)は、どのような人であろうか、などと興味が湧く。手がかりを求めて「なんのページなのか」を観ると、

「世の中には二種類の人間がいる。

 社会適応能力に秀でた人とそうではない人である。(中略)

私自身この後者の範疇に属する身であり、どうしてもこっちの人びとに親近感を覚える」

と書いてある。そして膨大な文章のあちこちに

「駄目になる」

という言葉がでてくる。はたしてこの「駄目」という言葉をキース氏はいかなる意味で使っているのであろうか。

さらにてがかりは、と思いそこからリンクされている「ダメ人間とは?」というページを観れば

「ダメ人間とは自分の夢があきらめきれず社会に適応できない人間や高い学歴や知識、教養があるにもかかわらず性格的、精神的なわがままのために、まともに就職できていないような人間のことです」

と書いてある。

 

私はこの文章を読んだ。体を起こし、少し考えた。なぜこの文章をすんなりと読み飛ばすことができない。何かがひっかかる。私の心の中にある問いはいかに無視しようと努力してもだんだん大きな声で響いてくる。

 

私は駄目人間なのだろうか。

 

こうやって自分で問いを聞いてしまったからには逃げるわけにはいかないし、絨毯の下に隠すわけにもいかない。ちょっと考えてみよう。駄目人間の条件とはなにか。

「高い学歴や知識、教養がある」これはどうだ。こうした言葉を自分自身に当て嵌めるときは、よほど注意しなければならない。

「それは違う」

と言えば

「なにを気取っているのか」

であり、

「そうだ」

といえば、

「なにを気取っているのか」

である。前に進もうが後ろに進もうがろくな反応が返ってくる気がしない。しかしながらここで私は

「この言葉を自分と関係ないといいいきってしまう事はできない」

とあっさりいいきってしまう。となると次に考えなければならないのは

「社会に適応できない。まともに就職できていない」

という言葉だ。

大学を卒業してから15年余り、一応その間仕事にはついている。しかし「まともに就職」というとかなりあやしい。10年余り勤めた会社を妙な理由でやめてしまい、どこに面接に行っても

「10ヶ月もなにをしていたんですか」

と聞かれる程長期間就職活動をした挙げ句入った会社で今なにをしているかと言えば窓際だ。

考えてみれば最近は窓際という言葉は使わない。昔は仕事の無い使えない人間は眺めのよい窓際の席に陳列しておいたものだが、最近ではネットに接続された端末でも与えるのではないだろうか。一日暇でしょうからインターネットでも観ていてください。Hなサイトも大丈夫。ほら。だれもあなたの席の近くによろうなんてしません。ただし職場の雰囲気がだれますから、スケベな表情を浮かべるのもほどほどに。あと笑い声も控えめにお願いします。

こう書いてみると、これは現在の私の生活そのままである。普通こうした境地にはかなり年を経てから到達するものであるが、40を前にして既にして到達してしまった私ははたして「まともに就職」しているといえるのだろうか。実際のところこの文章も就業時間中に書いているじゃないか。

などということをつらつらと考えていると、

「私は駄目人間なのではないか」

という問いはますます大きな声で響いてくる。

 

ここで私はいきなり開き直ってみる。「駄目人間に属し、親近感を覚える」と称している人が書いているこの見事な文章の数々を読んでみろ。こんなに興味深い文章を書ける人間が駄目人間であるならば、かえって「駄目」という言葉は賞賛を意味しているととってもいいのではないか。しかし私はこんなんことを書いても自分を納得させられないことを知っている。何といおうと

「駄目」

という語感には好ましからざるものがあるのだ。せめて

「ダメ」

とカタカナで書けば「ダメダメ」ってなもんでなんとなく軽くもなるものを。この漢字のもつ重々しさはどうだ。駄はわかるが目ってのはどういう意味を担わされているんだ。うむ。この疑念をどうしてくれよう、などと考えながらも手と目は時間つぶしのネットサーフィンに向かうのである。ブックマークに登録してあるサイトをクリックする。ブラウザのアイコンはくるくる回り出す。ぼーっと待っているがいつまでたっても表示がなされない。そのうち

「ページが表示できません」

というメッセージが現れた。なんと。妙な事を考えている間にネットが駄目になってしまったではないか。

 

今の私には、無意味なネットサーフィン以外にやることはないのだが、これではしょうがない。コーヒーでも飲もうか。

自動販売機のところにふらふらと歩いて行く。ここからの行動はほぼ半自動的に進む。財布から100円硬貨を取り出す。ちゃりんといれる。飲み物ランプが点灯する。。。。。点灯する。。。。なんだ?

 

ふと「返却口」を観るとさっき入れたはずの100円玉が戻ってきている。なんと100円玉まで駄目になってしまったというのだろうか。

落ち着け。落ち着くんだ。返却口から100円玉を取り出すと今度は慎重にそっと入れてみる。ころころという音の後に自動販売機のライトが好ましい赤色に点灯する。どうやら100円玉は駄目状態から脱したらしい。

よし。と次の行動に移る。「アメリカンしかもブラック」のボタンをえい、と押す。そうなるとかたん、という音とともに注ぎ口の脇にあるカウンタが時を刻みはじめる。。。始める。。。なんだ?

自動販売機はなにしらぬ顔で(顔などないが)赤いランプをつけたままである。投入金額のLEDは100を示している。つまるところ彼は私からの

「アメリカンしかもブラック」

をよこせという要求をまったく無視したのだ。

 

私は不安にかられてボタンを連打しだした。なにが起こっているというのだろう。ひょっとすると自動販売機まで駄目になってしまったのだろうか。この「駄目」というものは伝染していくものなのだろうか。伝染する、ということは、私がやっぱり駄目人間であり感染源であるということなのだろうか。いやそんなはずはない。そうだ。こうやってきちんとボタンを押せば大丈夫なはずだ。かちゃかちゃ。なぜランプがつかない。押し方が足りないとでもいうのか、それとも本当に駄目になってしまったのか。かちゃかちゃかちゃかちゃ。ころっ。へっ?

 

小さな作動音とともに、カップが転げ落ち、出来上がりまでのカウントダウンが始まる。私はじっとその数字が減っていくのを見つめる。自動販売機は何事もなかったかのようにコーヒーを注ぎはじめている。まるで不安にかられてボタンを御し続ける私を

「お客様。どういたしましたか?なにを御慌てになっているのでございますか?」

と営業スマイルを浮かべながら小馬鹿にしているように。

 

やはり私は駄目人間なのだろうか。いや、これは社会に適応ができるとかできないとかそういう次元の問題ではない。

 

単なるマヌケだ。

 

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注釈