日付:2001/1/13
ロック魂について-独身寮補遺日本の大きくて古い会社にはたいてい独身寮なる結構な制度がある。独身で金も貯まっていない従業員に対して、格安で住居ならびに食事などを提供してくれるわけだ。住んでいるのはだいたいの場合若い者であり、いつまでたっても身を固める気配がなければ前述の定義などおかまいなしに
「もう金はたまったでしょ」
と追いだされる。少なくとも○○重工はそうだった。ちなみにこの「退寮勧告」は通称「赤紙」と呼ばれていた。
さて、若い者というのは、そりゃ会社にも慣れていないから仕事で悩んだり、ベテランであれば10分でできる仕事に1日かけたりするからそう安穏とした会社生活が送れるわけではない。しかし彼らには(大抵の場合だが)それをおぎなってあまりある「どこに出たらいいのかよくわからない元気」なるものが存在している。そして大抵の場合その「元気」が噴出するとき、ハタからみれば「馬鹿な行動」として現れる。
平成13年の1月13日は、Polypus & JMSの新年会であった。私用で欠席の一人を除き全員が集まる。私を除いてはみな結婚し子供もいる身分だが、お互い話す事と言えば、音楽のこと、そして独身寮時代の馬鹿げた思い出話である。そしてこの日は私の10年来の疑問が解消した日でもあった。独身寮で発生した数々の馬鹿馬鹿しい事の中に
「何か奇妙なものが寮の中に存在してる」
というのがあった。たとえば薬局の前に立っているはずのうさぎちゃん人形とかが寮の廊下に立っていたりする。うちのバンドのギターの一人はその昔「ラビット○○」と呼ばれていたのだが、寮を徘徊するうさぎちゃん人形(何故人形が移動するかは謎なのだが)にむかって「おい。○○。何してるんだ」と話しかけた人間を少なくとも一人は知っている。
その他にもいろいろなものが寮にあった。たとえば泥のついた赤い工事現場の円錐形のもの(なんと呼ぶかしれない)が風呂に沈んでいたこともあった。また同じ光り物系でいけば、黄色く光ってくるんくるんするものが付いた麻雀屋の看板を持ち込んだ奴もいた。これを持ち込んだのが誰であるかは知っている(もう時効だと思うから書くのだが)ある日我々は飲みに行った。しこたま酔っぱらって帰ろうということになり、タクシーを止めたのである。私が乗り込もうと思いふと振り返ると彼1号と彼2号とはその看板を後部座席に引き込もうとしていた。運転手は
「お客さん困りますね」
と言う。ふむ、と思った私の耳に飛び込んできたのは運転手の
「トランクにいれてくださいよ」
という言葉だった。
かくして寮には数々の光り物が存在することになり、ある男が疲れはてて部屋に帰ってくると、そこらへんが赤だか黄色だかの光に彩られているのを発見し驚愕するわけだ。
さて、誰がこのような「色々なものの寮への持ち込み」をしたのだろう、というのが私の10年来の疑問だったわけなのだが、この晩そのうち少なくともいくつかはうちのバンドのドラマーによって行われていたことが判明した。彼の寮における行動は学生時代にサークルで行った蛮行の延長であったという。
彼は学生時代からドラムを叩いており、今でこそELTなんぞの曲を演奏することもあるが根はパンクである。彼が所属していたサークルでは酔っぱらっていきなり
「中京TVのタワーに駆け登ろう」
と言いだし本当に実行するといった普通の蛮行の他にもうちょっとインテリジェントな物も行われていた。仲間の一人は、なにやらの機器をアンプにつなぎ演奏させる事に凝っていた。彼は電気工学関係者であり通常はやらないような妙な事をやり出す。普通人間が聞くことができる周波数というのは決まっており、演奏させるからにはそこらへんの周波数でスピーカーを振動させるわけだが、彼は
「1Hz」
の信号を流したらしい。つまり1秒に一回スピーカーが前後に移動するのだ。
それをやると何が起こるか。彼が居住していたのは、今では見かけなかったようなボロアパートだ。そして物事にはすべからく固有振動数というものが存在する。細かい説明は省くがその固有振動数と同じ周期で揺れを与えると、その物は「共振」という現象を起こしぐらぐらゆれることになる。そしてその1Hzというのはアパートの固有振動数にぴったりあっていたのである。
ボリュームを上げるとまもなくアパートは振動を始める。かといって1Hzなどという振動を人間が音として関知できるわけもない。時ならぬアパートの揺れに同居人達は
「地震だぁ」
と動揺する。彼らはその様子をみて楽しんでいたとのこと。
そうこうしているうちに我々がいた寮では、世間様と様々な形の交流があったことも披露されたのである。行き場のない元気をかかえた若者の群れなどは周りの人から見れば迷惑以外の何者でもない。前にも書いたがベランダで大騒ぎをしていて思わぬ遠方から「うるせぇ」と文句を持ち込まれたこともあった。しかしすべての交流がそうした物であったわけではない。私の部屋とは反対側であったのが誠に残念なのだが、我々の寮の隣には某短大の寮が存在していたのである。短大と言えば、そこに住んでいる人間の大半は女子大生である。
その場にいた男が友達と寮の部屋で騒いでいると隣の寮に女性が居ることに気がつく。ひとつ明かりでも振ってやれとばかりに振るとどうやら反応がある。そこから彼らのコミュニケーションが始まるわけだが、もちろんモールス信号など使えない(それで会話が成立すればなんだか恐いのだが)懐中電灯を振り回し文字を書くのだ。しかも相手からみて読めるように左右反対に。それでちゃんと結構の長きにわたって会話が成立したらしい。
その先輩にはもっと進んだコミュニケーションをはかった人もいるとのこと。そうした不自由な通信ライン上でのなんやかやの交渉の末、彼はその寮の近くまで突進した。しかしそちらの寮の管理人もさるもの。先輩がいかに熱き血潮に燃えていようと、寮の安全を守護する管理人にとっては不心得者でしかない。目の前にはそうした輩を撃退すべく飼育されている凶暴な犬が待ちかまえていたのである。それ以上近くによることはできない。
犬とにらみあい歯がみする彼にむけて、ヒロインの方は自分の連絡先(おそらくは電話番号であろう)を書いて投げる。しかし不幸にして物理の法則は彼らの間に厳然として存在している。質量が小さな紙をまるめて投げたところで、それは遠くにとぶことあたわず、空気の抵抗はそれを犬の近くに落とすのである。彼は一歩も進めぬ自分の境遇を呪いながら窓を見上げる。
ここはヒロインがさらに手をさしのべる番だ。彼女は部屋の時計か何かの電池を抜き、それを紙に包んで投げた。増加した質量に力を得たその紙は見事彼の元に届き、それはやがて彼と彼女の結婚にまで至るのである。冗談のようだがこれは本当らしい。
さて、こんな事を話している間にその場所は時間となり、カラオケに向かうことになった。ロックバンドの宴会であるから歌う曲と言えばその方面ばかりである。昨今の通信カラオケというのは実に偉大な発明だ。以前レーザーディスクなどを媒体にして歌っていた頃はそのジャンルの狭さに心底閉口した物だが、今やエアロスミスのEat the richなどをカラオケで歌うことができるのである。
数々の名曲が選ばれ歌われる。これなかなかいい曲だね。何?KISS?あの連中こんなさわやなか歌を歌っていたのか。Billy Joelってあまりコピーされないけどいいよね。おお。このNew York City セレナーデってこんな名曲であったか。このサックスがすばらしい。誰かサックス買うって言ってなかったっけ。あいつを今度練習に呼んで吹かせよう。何まだ買ってない?誰だSPITZなんていれたのは。俺はやだよ。こんな歌歌うのは。うちのバンドでこれをやったときの苦悩がどれほどだったか知っているだろう。何故誰も歌わないんだ。うーららー宇宙のかぜにのーるー。うるさーい。誰も歌わなかったから歌っただけだ。こんな歌嫌いだー。
かくの通りの大騒ぎの中、酔っぱらった私の頭は暴走を始める。いつもながら自分の考えを文章にするとその「飛躍」とか「一貫性のなさ」とか「論理性の欠如」に唖然とする。本人が気がつくくらいだから読んでいる人はもっと強烈に感じていると思うのだが、これでもアップする前に少しは直して居るんですよ。そしてアルコールはかくのとおりの頭からさらに思考力を奪っていく。最近ロック魂という言葉を何度か目にし、それは何なのであろうと考えたりするわけだ。その次の瞬間にはいきなり
「ロック魂とは己の感じるところを周りを恐れずに主張することだぁ」
とかいう考えにとりつかれるのである。
誰はばかる事無く愛する曲を歌う我々にはロック魂があるのだ。合コンの2次会だといって、浜田某などに切り替えるのはロック魂が欠けているのだぁ。貴様がパンクを愛しているのであれば、周りが白くなろうが女性にいきなり用事を思い出されようがパンクを歌え。がぅーん。などと考えていたのだが実際問題私が幹事をした合コンの2次会でGod Save the Queen (by Sex Pistols)など歌われた日には「奴を2度と合コンに呼ぶ物か」と思う。しかし酔っぱらっている私の頭にそんな難しいことはわからない。歌が飛び交い、ビールは倒れ、床にこぼれ、何度拭いても濡れる床を歩くためには靴を履かなくてはならない。
しかしこの場にあってもロック魂を解さぬ奴がいた。カラオケの採点機である。我々が熱唱する歌に
「55点:メロディをきちんと聞こう」
だの
「63点:もっと感情を込めて歌おう」
だの憎たらしいことを言うのである。このあふれるロック魂が貴様の耳にはとどかんのか。たまに少しでも点数がよいと思うとコメントとして
「ゆっくりの曲は歌いやすい」
とあたかも曲が簡単であったから高得点がでたかのようにのたまう。
かくの通りこの採点機をプログラミングした人間にロック魂のかけらもなかったことは明白だが、音楽を入力した人間は確かにロック魂を持っていたのである。Eric ClaptonのLaylaという曲がある。すばらしい曲で、歌詞が終わった後も延々と演奏が続く。いつも電車の中でこれを聴くと空ドラムをやる衝動をおさえるのが大変なのだが、カラオケでも歌詞が終わった後演奏は続いている。
「もう終わるかな」
「まさか全部はやらないよね」
という我々の懸念をよそに、あの長い長い演奏を最後まできちんとやってくれたのである。これこそがロック魂だ。もはや何がロック魂なのかさっぱりわからないが。
私は普段カラオケに来るとウーロン茶など頼む人間なのだが、飲む量がそのときの機嫌に依存する五郎ちゃんであればここでもビールなど飲まずには居られない。そしてご機嫌のあまり酔いのあまり思考は快調に明後日の方向に走り続ける。
己の思うところを述べるのがロックだとすれば、それは外からどう見えるかとは関係がない。反抗の為の反抗はロックではなく、それが体制と同じ方向を向いていたとしても信念の吐露であるならばロック魂を持っていると言っていいのではないか。
となればだ。後世頭の固い形式ばかりを重んずる集団として排斥された儒家だってその始点であるところの孔子にはロック魂があったと言えるのではなかろうか。彼は64歳にして川の畔で飢え、死に直面する。しかしギターをかき鳴らしドラムを叩き己の信じるリズムを奏でることを止めなかった。
「何ですかこのザマは」と詰め寄る弟子に
「ロック魂が無い人間は困窮するとリズムがデタラメになるよ」と言い放ったのだ。
それに比べると孟子はカスだ。相手の質問には全く答えず言葉尻だけをとらえて、相手の気をそぐ。そして根拠も理屈もへったくれもなく「人間の本性は善だ」と断言する。目と耳をふさぎ、自分に都合のいい事だけを言い張るのはNTTだけで十分だ。
思えば後世に名前が残るのは(孟子のようなカスも混ざってはいるが)いずれもその思うところに生きた人たちであった。韓非子が法を説いたのは、佞臣がはびこり、心から忠義を尽くす士が軽んじられる世を目の当たりにし、孤り悲憤慷慨したためであった。情を軽んじ、冷たく立法を重んじたと教科書だけ読めばとれるようなあの男の文章からはこの世の不正を憤る言葉がほとばしってくる。彼も自分の音を奏でたロック魂を有する男であったのだ。がぉーん。ええぃ貴様まだ
「もっと感情を込めて歌おう」
などと抜かすか。もういい。貴様のようなロック魂のない機械に私はつきあってはおれんのだ。がじがじ。
とまあかなりの文言を補いながらも私が思いだし、文にできるのはここまでだ。後は覚えていないし、仮に記憶があったとしても支離滅裂で再現することもできまい。よっぱらっているとこういうデタラメな事でも自分が何かを考えている気になるから困ったものだ。それを文字にして自分で読むのは恥ずかしいことだし、人様の目にさらすなどとはいかなることか。では何故書くのか、と言えばちゃんと理由は存在しているのだが今や素面になった大坪君には恥ずかしくて文字にはできないのであった。
注釈Polypus & JMS:(トピック一覧)私が所属している、○○重工某事業所60年入社の同期でやっているバンド本文に戻る
ロック魂とは:(トピック一覧)このことについては、様々な機会に考えることがある。いくつか列挙してみる。山下和美著「ROCKS」「それだけは聞かんとってくれ」のいくつかのエピソード。特に第7回、第210回、第292回 本文に戻る