日付:2002/2/10
「古来、文字というものは権威であり、たとえば私などがこうやって飄飄と用いることあたうべからざるものであった。」-それだけは聞かんとってくれ 第75回 ダメ人間の系譜
インターネット上で「雑文」もしくはそれに類する言葉で指し示されるであろう文章を発表している人間であれば、一度は考えたことがあるのではないだろうか。いったいどこで道を間違えたのかと。
文字を読むことを覚えた時、我々が目にした文章というものはもっと高尚なものだったはずだ。おとぎ話。童話。世界の偉人物語。そこには夢と希望と教訓に満ちた言葉が綴られていた。
そして小学校に入ると、読むだけではなく自ら文を書けと言われる。人によってはすでにそこで道を踏み外した文を書いたのかもしれない。それだけは聞かんとってくれ 第61回 若きダメ人間の肖像 には小学校4年生でった作者が「UFOを見た」という文章を書いた話がかかれているし、かくいう私も小学校で交通安全の映画を見せられ、その感想文として
「人がはねられるところがかっこよかった」
などとまあそれはとんでもない文章を書いたことがある。しかし私にだって言い分はある。その映画には確かに人がはねられるシーンがでてきたのだが、それは100歩ゆずっても
「人形がふっとぶ」
シーンでしかなかったのだ。そのどこにリアリティを感じろというのか。どこから教訓を得ろというのか。などと理屈をこねても当時の自分に
「だいたいこうした映画を見せるからにはこういう内容の感想が期待されているのであろう。よし、それだけは書かないぞ」
という気持ちがあったことは否定できないのだが。
さて、そのころから「間違った」文を書く人はいたのかもしれないが、それが賞賛されるなどということはあり得なかった。褒め称えられ、名誉を受けたのは「感心な」物語。それらには愛、友情、努力、公共の福祉などキーワードが必須だったのだろう。そうしたもののかけらもない文章がどのような扱いを受けたかは私自身がよく知っている。前述した私の感想文は授業参観の日教室に張り出され、それを読んだ母親は
「この子アホじゃないかしら」
と大変恥ずかしい思いをしたという。そして今にいたるもその話を私に繰り返し繰り返し聞かせるのだ。
どこで道を間違えたのだろう。その神聖たるべき文章の世界に「駄目雑文」だの「脱力系」だのおよそ許されざる、不名誉な言葉を堂々と持ち込むようになったとは。いつからなのだろう。その「不名誉」な振る舞いを「上手」になしえた者には賞賛の言葉が寄せられるようになったのは。
こんなことを書くのにはちゃんと理由がある。最近私は風呂の中で「ノストラダムスの全予言」という本を読んでいる。どこから読み始めてもどこで読み終わっても大して問題がないのがありがたいところ。1999年7の月も問題なく通過した今となっては心安らかに
「自民党が300議席を得ることが予言されている」
などというくだりを笑い飛ばすことができるのだ。しかし次の一節を目にしたとき私はあやうく本を湯の中に落としそうになった。
Ⅵ−9聖なる神殿で不名誉な振舞い
それらは賞賛に値する名誉とみなされよう
みなが銀 金 賞牌に刻む者とによって
結末は世にも風変わりな拷問に終わるだろう
エリカ・チータム著 山根和郎訳 流智明監修
「ノストラダムス全予言」より
1行目、2行目には、まさに駄目雑文、脱力系、そうした本来あるべき高尚な文章から外れた「不名誉な振舞い」がインターネット上で横行し、しかも賞賛されることが記述されているではないか。そして3行目、「銀と金」という言葉は、「赤ずきんちゃん☆ブレイクダウン」の020129に「金の斧銀の斧」が取り上げられていたことを思い出させる。となると最終行にかかれているのは....
日頃から愚痴ばかり言っている人間であっても正面切って
「愚痴を言え」
と言われたら困惑するだろう。日頃から物をなくしてばかりいる人間でもいざ
「物をなくせ」
と言われたら困るだろう。いつも女にふられてばかりいる男に向かい
「女にふられろ」
といったら「うるさい」と怒鳴られるだろう。そして日頃から法螺や嘘や出鱈目を書き散らしている人たちは「赤ずきんちゃん☆ブレイクダウン」で開催された「ウソツキ雑文企画」唯一の縛り
「嘘をつくこと」
に苦しんだのである。日頃から行っていることを正面から要求するだけでこれほど人を苦しめることができるとは。これが「世にも風変わりな拷問」でなくてなんであろうか。しかし「不名誉なふるまい」を「名誉と見なす」ものどもは、その拷問に自ら進んで参加しようとするのである。そしてとんでもない嘘をついたものを賞賛するのだ。少し想像をたくましくすることが許されるなら、こうした光景を霊視しを詩文に記した後、ノストラ君は深いため息をついたのではないだろうか。
しかし私の心の中にはすっきしないものが残ったままだ。3行目に残された「賞牌」という言葉である。牌と言えば麻雀パイ。そして麻雀と言えば「それだけは聞かんとってくれ」の作者Keith中村氏が想起されるのである。(第50回 正月バクチャーズ 参照のこと)明らかに「ウソツキ雑文企画」を予言したと思われる詩の中になぜKeith中村氏への言及が。これはノストラ君がKeith氏もこの雑文企画に参加すると考えたためか、あるいは氏の文章を愛するあまり、予言の正確さを損ねることも恐れずとにかく言及したかったのか、あるいは単なるボケなのか。
今日に生きる我々にはそのいずれとも知るよしはない。無理なこじつけをするよりは謎は謎のままとしておき静かに筆を置くこととしよう。小さな謎が一つ残っていたとしてもこの予言の正確さには戦慄を覚えざるを得ない。というかさめてきた湯の中で背中を丸めながら必死に
「何かネタになる予言詩はないか。なにかないか」
とやっていると限りなくなさけなくなってくる。嗚呼お母様。不詳の息子は30年たった今でもアホのままなのです。
注釈赤ずきんちゃん☆ブレイクダウン10000ヒット記念、ウソツキ雑文企画参加作品その2である。そもそもこの雑文企画の縛りが論議され始めたとき、一番最初頭に浮かんだのは
「誤解釈」
雑文であった。そして
「そうであれば、ノストラ君を題材に」
と思っていたのである。
しかし最終的に設定されたのはもっと簡潔にして、書き手の想像力にチャレンジする縛りであった。うむ。しからば、と思った私は無理して前の文章のようなものを書いたわけだが、やはり無理は無理だったようだ。
というわけで初心に返り、素直にノストラ君の誤解釈を書くこととした。とはいってもかなり内輪受けの要素がはいっているな、とは本人も思うところ。しかし例によって書いた物は公開してしまうのである。