日付:2001/6/1
合コンであるとか飲み会とかであるとかがあったとする。「かんぱーい」
とかなんとか言ってお酒なりなんなりを飲み出す。考えてみれば普段の食事であるとか生活においてこんなに短時間に大量の水分を摂取することはないのではなかろうか。そして人間の体の摂理として摂取したものは排出せねばならんのである。
でもってトイレに行く。するとこれはほとんどの場合、女性トイレのほうが混み合っている。こうした状況は別に飲み会の時に限らない。ちょっと人が混み合うイベント、あるいはデパートなどでも同様である。ひどい時には女性用のトレイには入り口からはみ出すほどの行列ができており、それが男性トイレから見える様なところまでのびている。こちらから見える、ということは向こうから見えるということでもあり、多少気恥ずかしい思いになる。
しかしながらこうした場合、観ている方-つまり女性だが-は大して気にしてもいないようである。それどころか生理的欲求の前には羞恥の壁などなにするもの、とばかりに男性用トイレにも女性が並び出すのだ。そりゃ並んでいる男の大半は立って用事をすませ、しゃがむ人は少数であろう。しかし我々の心のうちにわき上がるこのとまどいはいかなることか。それも「元若い女性」であればともかく、花も恥じらうような女性が堂々と並んでいるのはいかがすべきか。ああ、この困惑と怒りをどこにぶつけよう。これも元はといえば女性用トイレの大混雑がいかんのである。そうだ。トイレだ。トイレのやつがいけないのだ。ではトイレのどこがけしからんのか。答えは明快。私の推定に間違いがなければ、大抵の場所で、男性用トイレと女性用トイレの面積を同一にしているようだが、この設計に問題がある。
考えてみよう。まず男性は多くの場合、たったままで用事を済ませることができる。ところが女性の場合は必ず個室を占有する必要がある。この時点ですでに必要面積に差がでている。総面積が同じで必要面積が多い、ということであれば、すでにして最大収容人数に差がつく。
次に男性の場合、立ったままで用事が済む場合に、必要な動きというのは概略片手を上下に15cm、前後に数cm、振動数回、これだけである。
しかしながら女性の場合はこうはいかない。正直に言えば、女性が座る際にどれほどの動きが必要か知らんのである。しかしながら前述した男性の動きに比べて、それが多い物であり、かつ時間を要することは間違いないのではないか。
以上のような状況を鑑みるとき、私は以下のように主張したい。つまり
「女性用のトイレの面積は、男性用のそれよりも少なくとも2倍にするべきである」と。
しかしこの私の主張に対してはこのような反論があるかもしれない。
「Ally McBealにでてくるようなUNISEXのトイレにすればいいではないか」
なるほど。元々男女のトイレを別にするから片方が混むだの、時間がどうだのいう話が生まれるのであって、一緒にしてしまえば何の問題もない。これは名案。
しかし、と私は思うのだ。何だろうUNISEXのトイレに対して感じるこの違和感は。何故だろうあの光景に対して感じるこの心理的抵抗は。
男女席を同じうするのはけしからん、というのは誰が言ったか覚えていないがとにかく私の脳裏に焼き付いているくらいだからきっとアジアの偉い人が言ったのだ。それにひきかえAlly McBealの国であるところのかの国はいかなることか。男女のトイレを一つにしてしまうだけでは飽きたらず、映画の中とはいえ男女が同じシャワールームでしゃわしゃわシャワーを浴びているのである。それはSFの中の作り事だよという反論にはこう答えよう。いかなる国産のSF映画においても私はそんなシーンを見たことがない。せいぜいが山口百恵のダンナがケツを丸出しにしてふらふら裸のおなごと浮いている場面くらいのものであると。いや、これは普段のいとなみ(人によってはそうらしい)を映像にしただけか。まあいいや。
そもそもこのUNISEXという文字を見て何か感じないだろうか。中学生の男であれば後ろ3文字だけに反応するかもしれないが、世の中にはおそらくSEの2文字を落としてUNIXという文字列をつくりあげ、これまた別の形で反応する人間もいるやもしれん。UNIXトイレ。それは一体なんなのだ。lsだのcreatだの怪しげな呪文を覚えなくては扉を開けることすらかなわず、排泄したものを流そうとか、お尻を洗おうと思いボタンを押すと何故かそれは文字列として入力される。頭にきたあなたはEscapeキーを乱打しようとするのだが、そもそもEscapeキーはどこにあるのだ。すっかり頭にきたあげく
「誰だこんな使いにくいトイレを作った奴は」
と文句を言えば
「気に入らなければ自分でシェルを作ればいいじゃない。そんな文句を言う人はこのトイレを使わない方がいいよ」
と皮肉と優越感が混じった声をかけられる。そしてその声の方を見れば何故かその男はトイレの配管やら床板を喜悦の表情をしながらいじくりまわしているのであった。そんなことをして何がうれしいのかという貴方の問いに此処では誰も耳を傾けない。それどころかその男は自宅にまで太陽印の中古便器を備え付けそこで「空」という名前のリスを住まわせ
「配管いじるの最高っすよー」
と叫ぶ。ところが不思議なことに日常用を足すのには改造が不可能な別の窓付きトイレを使っているのだ。
などとコンピューターオタクの妄想に浸っている場合ではない。とにかく私はこの男女トイレを同じうする、というコンセプトに畏れを抱いているのであり、何故そんな畏れを抱くかと言えば女子トイレに本能的な恐怖を感じているからだ。正確に言えばトイレにある鏡というか洗面所というかとにかくあれである。
そんな鏡がどうした、と問われればこう答えよう。私にはTVとか漫画とか人の会話を聞いたところから推定するしかないことなのだが、もしそれらを信じるとすれば、彼女たちは鏡の前で身繕いをするのだ。お互いのみだか塩を取り合うというわけではない。化粧を直したり髪をすいすいっとしたりするのだ。そんなことは昨今電車の中で日常的に行われて居るではないかと言われればその通り。しかし彼女たちはどうやらそれをしながら会話を交わすらしいのである。
私はその会話を聞きたくないのだ。女性だけの世界で交わされるその言葉はどのようなものであろう。友達カップルとある学園祭に行ったとき、トイレから帰ってきた友達の彼女はこういった。
「トイレにいったら、洗面所のところで、女の子二人が猛烈な勢いで髪をときながら
”ねえ。あのたこ焼き屋のお兄さんかっこよかったわよね”
”あんたもそう思った?もう一度行ってみない?”
とか話してんのよ」
なのだそうである。
おそらく知らないままでいることが幸せなことは世の中にたくさんあるのだろう。そして私は思う。これはその一つではないかと。花も恥じらう年頃の女性が男性トイレにいることも、列の長さが等しくなるまで男子用トイレの面積が減少することも甘受しようではないか。私はかの部屋と私が入ることが許されている部屋が私の生或限り分けられている事を切に望むのだ。私はそこで何が行われているか知らないまま生を終えたいと思うのだ。
注釈
Ally McBeal:(参考文献参照)わかりにくいのを承知で「アリー・マイ・ラブ」と書かない私はいやな奴なのである。本文に戻る