題名:私のMacintosh

Mac-IIcx part1

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日付:1998/4/22

改訂:1998/6/15


Mac-IIcx part1

さて最初のMacintoshが導入されて以来というもの、「会社の公式見解」と戦いながらも、着実にMacintoshの台数と、それらを使って作成される資料の枚数は増えていった。会社がどんな公式見解を出そうが、第一線で働いている人間が、早くきれいに仕事ができる道具を選ぶのは当然のことである。そして、そういった第一線の状況が、「会社の公式見解」に全く影響を与えないのも、これまた当然のことであった。

さてそれとは全く関係ないのだが、幸か不幸か私は1990年から2年間米国に留学することになったのである。

私の先輩はちょうど1988年に帰ってきた。そしてStanford大学でのコンピュータ事情をいろいろ教えてくれた。なんでもとんでもなく高いMacintoshもアメリカの大学の学生価格で買えばとんでもなく安く買うことができるという。よし。アメリカの大学にいったらまずMacintsohを安く買うんだ!と私は当時心に固く誓っていた。

そうこうしているうちに夏が来て秋が来た。そしてその間に何があったかは、ここでは詳しくかかない。しかしながら上司の「見事な仕事のアサイン」の結果私は大変不機嫌となり、、、若さ故、どっと落ち込んでいたのである。

そして私は異常に不機嫌であった。そのときの不機嫌さはちょっと口ではいいあらわし難く、、軽い鬱病のけがあったかもしれない。そして「見事な仕事のアサイン」をした上司はあまりに憂鬱そうな私の姿をみかねてか、「私の机の上にMacintosh-SEを置いてもいいよ」と言い出した。

私は常にMacintoshを多くの人に使ってもらい、そして書類を早くきれいに作ってもらいたい、と願っていた。だから会社で購入したMacintoshを個人の机の上に置いて、占有的に使用することは常に反対だった。だから元気なときだったら、そんな申し出は言下に断っていただろう。しかし鬱病の五郎ちゃんはそんなことはできなかた。

「はぁ。いいんじゃないですか」といった感じであっただろうか。そしてその自分の机の上に置かれたSEを仕事に活用するばかりでもなく、いろいろな駄文を書くのにも活用しだしたのである。

そして私は自分が独占できるコンピュータがあることのメリットを実感したのである。ほかの人間が使っていないか?などと気にする必要もない。休み時間になったらゲームをして遊べばよい。ソフトの追加、削除も思いのままだ。そして鬱病にかかっていた私はとんでもなく馬鹿な判断をすることになる。あと半年我慢すれば学生割引で安く買える物を、いきなりその3倍近い値段で購入しようと決意したのである。

当時何を考えていたか定かではないが、半年間自分の机の上に占有できるメリットと、差額のおよそ70万円をはかりにかけてどういうわけか前者が重いと考えたのである。当時の私は少しでも自分の精神の憂鬱ををはらすことができるものであれば、ためらうことなく購入するほど疲れていたのである。

記録によれば、最初にコンピュータショップに行ったのが1989年12月10日、そこでおおよその仕様を聞いて、注文を出している。そこは最初に会社で2台のMacintoshを購入した店であった。

さて購入する機種はほぼ決まっていた。Macintosh-IIcxである。当時はちょうど新機種であるIIciが発売されたところであり、非常に高速(とはいっても68030@25Mhzであったが)であることは当時から話題になっていたが、日本語のOSが使用できなかったため選択の対象とはならなかった

さてパソコンショップにはいっていくと、なぜかアルバイトでもなくたむろしている少年達がいた(当時はこういう店でしかMacintoshを売っていなかったのである)そして私はいろいろと聞きながら仕様を決めていった。

MacintoshIIcx、RAM2Mb、HD45MB(これはサードパーティー製)、13inchモニタ、それにキーボード+マウスである。これでお値段はしめて。。。およそ100万円であった。今から考えれば目玉が飛び出るほどの値段である。時代が変わったからもちろんスペックを同一基準で比較することができないが、ミッドレンジのパソコン一式が100万円というのはまず考えられないことであろう。しかし当時の私は何を考えていたのかわからないが、全く動じなかった。一週間後の土曜日、12月16日に銀行から100万円をおろして、札束を握りしめ、あこがれのMyComputerを手に入れたのである。

それからさっそく家に帰ってセットアップ、、家の人間は見てはいるが、特に関心を示すわけではない。父親に「こんなに使いやすいんだよ」と説明してはみたが、「なんだか普段書類を作る考え方とはあわないな」と言ったきりだ。まあいいや。これでとにもかくにもすごい性能の自分のコンピュータが手にはいった。色は256色もでるし、なんたって68030なんてのはSun-3に使われていた68020よりも上位のcpuなんだから。

それから年があけるまでMacintoshII-cxは実家の机の上に鎮座し、ひたすら休日の私の便利な道具となっていた。私は現在にいたるまでHyperCardで日記をつけているのだが、これは購入直後から、自分でスタックを作ってつけはじめたものである。やがて会社が年末年始の休みになると、私は家のコンピュータの前に座って、「上海」というゲームばかりやっていた。

当時私は鬱病だったし、おそらく母親もそれを感じていたのだろう。鬼気迫る様子で上海ばかり続ける私は、ついには母親の問いかけにもろくに返答しなくなった。母親が私にむかって「ついに頭がおかしくなった」と言ったことを覚えている。秋から続いていた仕事のストレスと、個人的な事情もあって、当時の私はまさに「よれよれ」状態であった。だからついにコンピュータを手に入れた、という感動は当時の日記からも読みとれないし、全く記憶にもない。当時はとにかく気息奄々、歩くのが精一杯という状態であった。しかしながら当初の予定通りこのコンピュータは私が日本を発つまでの間半年実によく働いてくれたのである。

業務に使用し始めてまもなくRAMが2mbではほとんど何もできないことがわかった。(今だったらシステムも立ち上がらないだろう)システム+アプリケーションは立ち上がるのだが、二つ以上のアプリケーションが立ち上がらない。アプリケーションがひとつしか立ち上がらないと、作業はとてもやりにくい。というわけでどこから入手したか忘れたが、1MBのRAMを4枚手に入れて、RAMが5MBのシステムとした。また当時からハードディスクの容量も不足気味となっていたのだが、こちらは知らない顔をしていた。とりあえずDailyUseには十分だったから。

私は日本をたつ直前に自分で「大坪さん花嫁候補トトカルチョ」というくだらないととかるちょを主催した。「さて。大坪社員は誰と一緒に渡米することになるでしょう?」というやつである。そこには「いっしょに渡米する候補」として、無慮11人の女性の愛称とともに「平成元年12月購入のマッキントッシュ」もリストアップされている。そして私はこれもまた当然のことながら生身の女性ではなく、「マックちゃん」とともに渡米することとなった。


さて私は気がつくとSan Fransiscoエアポートの国際線出口に呆然と荷物を抱えて立っていた。

これは誇張ではなく本当にこういう感じだったのである。私は正直言って、自分が米国に着いてからどうするかほとんど考えていなかった。とにかくいけばなんとかならあな、と思って何も考えていなかったのである。ああ、この人間が数年後には「米国留学する際にはしっかりと目標を定め、準備をちゃんとやってから行くべきだ」などと偉そうなことを言うようになるとは。。

そんなことはどうでもよろしい。それからおこったドタバタを書いていると、それだけで信じられないくらいの枚数となってしまう。だからMacintoshに関係したことだけを書いてみる。

到着してから数日して、ようやく航空便で送ったMacintoshが届いた。これがついて、物が書けるようになるとほっと一息といった感じがする。これで日記もかけるし、いろいろな手紙も書けるし、会社への報告書も書ける。自慢じゃないが私はとても字が汚い。会社への報告書など自筆で書いたのでは誰も読んでくれないだろう(そのうち「何をやっても誰も報告書なんか読んでくれない」ことに気がついたが)

さて、当時はTrueTypeなんていう便利なアウトラインフォントは標準で添付されていなかった。従って、標準のシステムでは日本語を打ち出すことはできたが、今一つきれいにはならなかったのである。もし日本語を本当にきれいに打ち出そうとすれば、当時100万円以上していたPost Scriptプリンタ、LaserWriter-II - NTX-Jを使うしかなかったのである。

個人ではとてもそんなことをやっていられない、、、と思った私は日本で一応きれいに見えるフォント(サードパーティー製)だけは購入しておいたのである。そのフォントもインストールして、本体側は準備が整った。さてとこれからいろいろ周辺機器を購入しなくちゃ。せっかくMacintoshが安いStanfordにきたんだから。しかし例によってそれからの道筋が平坦であったわけがなかった。

 

まず購入しようとしたのは増設ハードディスクである。容量は80Mbだ。これは当時の私にとっては一気に3倍増の大増設だったのである。今では80MbのHDなんてものは世の中で見つける方が難しいだろうが。

さてStanfordの中にはBook Storeなる本屋がある。その中にはコンピュータを扱っているコーナーもある。私は「とにかくここが一番安い」と頭から信じて疑わなかった。(この「根拠の薄い思いこみ」は過去においても、今でも私の生活を苦しくしてくれる)従って価格を検討することもなく、いきなりそこでHDを購入したのである。一気に容量が増大し、ごきげんになった私は、さっそくフロッピにバックアップしていたファイルをHD上に展開しはじめた。。もっとも半年後には全てのファイルはまたフロッピに戻ることになったが。

 

次に買いに行ったのははプリンタである。当時Hewlett PackardがInk jet なる新しい方式の"Desk Writer"というプリンタを売り出したころだった。そのころ一般庶民が「夢想」することのできる解像度とは300dpiだったのである。しかしLaser Printerはとても高い。ところがInk Jetは低価格でこの300dpiを達成しているそうではないか。

さてそのころになると、少しStanfordの生活にもなれてきて、いろいろな知り合いも増えてきた。そこでいろいろ話を聞いてみると、全てのコンピュータ関連用品において、Stanford Book Storeが安い、というわけではないらしい。実際学外のコンピュータストアで80MBの外付けハードディスクが私が購入した価格の7割くらいで売られて入れるのを観たときは、しばらくひどく落ち込んだものである。

さて今度は同じ間違いをしてはならない。慎重に知り合いの一人に「Desk Writer買いたいんだけど、どこで買えば安いかな?」と聞いたら、帰ってきた答えは「Book Storeは高いですよ。そこらへんのコンピュータストアで、Stanfordの学生だ、って言えば値引いてくれますよ」ということだった。

 

 なるほど、何につけても先達の意見はありがたい物だ、と感心した私は車に乗って、コンピュータ屋を何軒か回ることにした。StanfordのあるPalo AltoはさすがにAppleのお膝元だけあって、Macintoshを扱っているコンピュータ屋はたくさんあるのである。

何軒かでは、「Stanfordは特別割引があるよ」とか言ったが、その価格は結果としてBook Storeよりも高かった。今度は反対側の原因で再びがっかりした私は、結局Book StoreでDesk Writerを購入した。

このころはまだ向こうについて、腰が落ち着いていない頃だった。そしてこういう時期というのはちょっとしたことでも結構落ち込んだりする。当時一番私を落ち込ませたのは運転免許の試験に2回落ちたことだったが、この「Desk Writerを買うまでの無駄足」も結構私をBlueな気分にさせてくれた。冷静に考えればたかだかプリンタ一台買うのにあちこち走り回っただけなのだが。。。。今となれば「どんなに高くついても経験は常に安い」などと小説の中のことわざを引用したり、と脳天気なこともできるのだが。

 

さて多少の紆余曲折はあったものの、めでたくこれでだいたいの環境はそろったことになる。私はさっそく会社にだす報告書をMacintoshで書くこととした。また授業が始まってからもこのMacintoshは数々のレポート作成に役立つこととなる。

 

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注釈

米国に留学:トピック一覧参照)何故私が留学する羽目になったか?これに長い話がある。トピック一覧経由、「留学気づき事項」を参照のこと。本文に戻る

 

いろいろな駄文:この駄文第一号が「YZ姉妹」(題名一覧参照)である。本文に戻る

 

最初に会社で2台のMacintoshを購入した店;くどいようだが、当時は大須やアメ横(いずれも名古屋の中心街にある家電関係の店が集まったエリア、秋葉原を数分の一にしたようなものだと思ってほしい)にいって、すぐにMacintoshが購入できる世の中ではなかった。Macintoshを売っている店は実に少なかったのである。本文に戻る

 

選択の対象とはならなかった:IIcxが発売されたとき時のCEOジョン・スカリーは「iicxは今までで最高のでき」というコメントを出していた。そのIIcxは比較的短命に終わり、IIciのほうが長寿でかつ後の世まで名機としてたたえられたことはどことなく皮肉でもあった。本文に戻る

 

あこがれのMyComputer:近頃あまり使われなくなった言葉であるが、「パソコン」とならんで「マイコン」という言葉が使われていた時期があった。このことばは3っつの意味を持っている。

1. マイクロコンピュータ(小さなコンピュータ、大型計算機に対して)

2. My(マイ)コンピュータ(個人で占有できる「私のコンピュータ」

3. マイクロコントローラ(小型の制御機器)

ここではもちろん2番の意味で使っている。3番目の意味はあまり知られていないと思うが、私の研究室ではこれは真実として流布されていた。

ちなみに前日確認した仕様から、私が購入したコンピュータは一部仕様が変わっている。サードパーティー製の45mbハードディスクが使用できなくなったため、アップル純正の40mbHDつきのモデルを購入せざるを得なくなった。店側のセリフ「45mbのHDを購入してくれたお客さんにはPublicDomainSoftを100本おつけしているんですが、お詫びのしるしにPDSを100本おつけしましょう」このときのソフトはいずれも大したものではなく、もらったディスクはたちまちデータ保存用として使用されることになる。本文に戻る

 

日記トピック一覧):元は高校のころにさかのぼる。いまだにつけている。詳しくはトピック一覧から「長い友達」の中の日記の注記参照のこと。本文に戻る

 

歩くのが精一杯:この鬱病の身体に与えた影響はなかなかどうして無視することができなかった。本来は単なる憂鬱であったはずが、4月、5月になると、不眠、食欲不振、またその結果による著しい体力の減少に悩まされることになった。

今から考えれば贅沢な悩みだっという気がしないでもない。しかし所詮過去や未来の苦痛、悩みを自分の現在のそれと比較することはできない。「おしゃべり階段」(参考文献一覧)から引用しよう「いつだって今の悩みが一番」本文に戻る

 

大坪社員は誰と一緒に渡米することになるでしょう:日本企業から米国留学に派遣されるのは、だいたい20台後半から30台前半の人が多い。男性にとってはちょうどお嫁さんをもらう適齢期でもある。従って、留学前に結婚して渡米してくる男性は実に多かったのである。私はといえば、当時27歳であったがなーんにも考えていなかった。本文に戻る

 

どんなに高くついても経験は常に安い:(トピック一覧私が愛する「ボートの3人男」(参考文献一覧)に載っている「ことわざ」。私はこの「ことわざ」の原文を知らないがおそらく日本にも同じような格言が存在するだろう。本文に戻

 

フロッピにバックアップ:今では考えられないことだが、当時は大抵のアプリケーションはフロッピでバックアップがとれたのである。本文に戻る

 

運転免許の試験に2回落ちた:この話をし出すと別の物語がかけてしまうほどになるので、とりあえず書かない。私の車を借りて受験した人間は全て一発で合格したというのに、私はなぜか何度も運転免許試験所に足を運ぶことになった。「こんなことでこの先暮らしていけるのだろうか」ととても憂鬱な気持ちになったことを今でも覚えている。 本文に戻る