題名:私のMacintosh

Duo280c

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日付:1998/8/15


Duo280C

さて1993年11月にソフトウェアの部門に転属してから、結構私の会社生活は快適なものとなっていた。少なくともその場だけ考えて入ればのはなしではあるが。

なんといってもここは実質的に放し飼いになっていたのが大きい。時々言われることだが、会社が注力している分野の仕事を担当する、というのは聞こえはいいが、わけのわからない上役がいろいろ顔をつっこんでくる、ということでもある。繰り返しになるが、ソフトウェアは○○重工ではまともな仕事と思われていなかったがために、ヒラの私でも好きなようにすることができた。おまけにそこにいる人達はとても一緒にいて楽しい仲間だったのである。

さて目前には仕事の上での一つの目標があった。当時ワークステーション上で動く戦闘シミュレーションプログラムを作る、という計画があったのである。前の部署にいたとき、私はその仕様書を作っていたのだが、今度はその仕様書を受け取って自分でプログラムを作るはめになったのだ。

私が卒論のときに当時まだ珍しかった(少なくとも機械工学科では)Cを使ってごりごりとCADのプログラムを書いていたことは前述した。それから10年ちかくたって、また私は自らキーボードに向かってごりごりプログラムを書くことになった。この時のプロジェクトは私ともう一人で分担をしていた。彼のほうは計算を主にやる部分。私のほうはデーター入力、結果解析の部分である。このときは別にお客さんがいたわけではないので、自分の好きな絵が描けたことがとても嬉しかった。考えた内容を1から10まで物わかりの悪い上司に説明する必要もないし、がんばればそれだけ仕事がまえに進むのである。

さてここから仕事の話が長くなるが、ちゃんと後で私のMacintoshに関係してくるので、とばしたり、我慢しながら読んでくださいな。うっとうしければ、ここまで飛んでください。

さて当時その部署にはSilicon GraphicsのIRISというワークステーションが2台鎮座していた。しかしプロジェクトは5人くらいでやっていたから、当然端末がたりなくなる。その部屋にも一応LANがひいてあったので、私は机上のPB100をローカルトークで接続し、Telnet接続してプログラムをごりごり書いていた。TelnetであればPB100でも実に快適に動くし、入力画面担当といいながら、結構画面表示を必要としない裏方のプログラムも作っていたのである。

そのうちやれ他のコンピューターにも状況表示画面をつけろだの、某有名ミサイルシステムのコンソールを模擬した画面をつけろだの、いろいろな話がでるたびに、システムはでかくなっていった。今から考えてもこの某有名ミサイルシステムのコンソールを模擬した画面は秀逸であったという気はする。(プログラムの中身はどぶに大量発生したみみずのような状態だったが)しかし問題は計算部分にあった。

そこを担当した男は「基本となるデーターベースの設計には時間をかける。ここは重要なところだ」と豪語していた。最初はこのセリフに感心したが、そのうち彼の「時間をかける」というのは「しばらく何もしない。期限まぎわになったら、適当に何かつくる」ことだと判明した。この彼が言うところの「データベース」とは早い話Cの構造体で定義したファイルのあつまりなのだが、あちこちに同じ意味をもつフィールドが定義されていて、解読、変更はとても難しかった。

同じ内容のデーターが3カ所ぐらいに登場するから、一カ所でも変更を忘れれば、たちまちプログラムは崩壊する。Cの悪いところで、配列の中の要素が割り当て分を超えて増加していっても、何も警告はしてくれない。快調に関係ないエリアを書き換えてコアをはいておしまいである。おまけにシミュレーション中に登場する兵器の数も固定配列で定義されていてなおかつ何のチェックもされていないから(とはいっても兵器の数に依存する配列がまたやたらとあったからチェックは不可能だったかもしれいないが)調子にのってちょっと大きなシミュレーションを実行しようとするとたちまちおなくなりになる。そしてこの「出現可能兵器数」を増加させるのも慎重な解析よりも、野生のカンと幸運が必要とされるような作業だった。つまりこのプログラムの計算部分はほとんど神の御心のままに動作しているような状態だったのである。

おまけに彼は何かというと「これはシステムが悪い」と「原因究明」をするのが得意だった。思えば「問題をソフトウェア環境のせいにするのはろくなプログラマではない証拠だ」という信条を持つようになったのはこの時からかもしれない。彼は友達に「UNIXのプロセスのプライオリティ管理というのはタコだ。」という言葉を聞いてからというもの、それは彼の得意の言い訳になった。計算部分は長いシミュレーションを走らせると、だんだん実行時間がかかるようになり、最後には亀のようなスピードでうごき(これは亀にとってはちょっと失礼かも知れない、といえるほど遅かったのだ)最後にはコアを吐いてとまる、という動作をした。これは彼に言わせると「UNIXのプライオリティ管理がタコなもんだから、シミュレーションを20分以上走らせているとプライオリティが下がりまくって実行速度が遅くなる。これはUNIXの問題だ」と言うことだった。

ところがある日とうとうその原因が判明した。計算部分のプロセスが異常な大きさになっていることがわかったのだ。なんのことはない。彼のプログラム中で獲得したメモリを解放していなかったのだ。シミュレーションの実行とともにプロセスは肥大化し、メモリを食い尽くし、ハードディスクを食い尽くしたところでコアをはいてお亡くなりになっていたのである。

さてそうこういいながらも、ようやくお客様にこのプログラムをデモする機会がやってきた。1994年の5月であっただろうか。プログラムの内容は前述したような状況だったので、私は神の御心が、このデモの間中なんとかプログラムをちゃんと動かしてくれるように祈っていた。

そして神様はときどき気紛れにこっちを向いてくれたりするのである。デモは無事に終了した。何故このデモが必要とされたかというと、同じようなプログラムを我々の近隣他社であるところの△○重工が売り込んでいたからである。彼らは既に客先と長い間つきあいがあったし、シミュレーションプログラムも長い時間をかけて開発していたので、この時点では遺憾ながら当方の勝ち目はなかった。実際付け焼き刃の部分が多かったのだが、客先からはずばりとそこをつかれた指摘を受けた。この時の客先はちょっとエキセントリックな人だったが、頭はよかったのである。

 

さてデモの結果が効いたのか効かなかったのかは知らないが、翌年の7月納入のプログラムが2本あるうち、1本が当社に回ってくることになった。それまでの間はひとときの平和が訪れた。私は某有名ミサイルシステムのソフトの仕事も兼任していたから、そちらの試験とかもやっていた。生まれて初めてUNISYSの「汎用機」なる不思議なコンピューターにさわって「なんじゃこりゃ!」と発狂しそうになったりしていたのである。それまでUNIXの「へー、わかんないなら使わなくてもいいよ。文句があるなら自分で作れば」的な文化に反感を覚えていた私だが、この時にいたって何故あれほどUNIXが普及したのか初めて理解できたのである。確かにこんな気が狂うようなOSにさわっていれば、多少傲慢なところがあってもUNIXのほうがはるかにマシである。

さて話をMacintoshに戻そう。このころ寮に鎮座していたQuadra700が何に使われていたかというと、ほとんどこのホームページにも掲載している"HappyDays"を書くのに使われていたのである。当時はちょうど40章のあたりであっただろうか。他にもCD-ROMのゲームとかいろいろちょこちょこやってみたのだが、どうも私にはゲームが性に合わないようである。だからこのコンピューターは文書書きと、QuickTime Movieの作成専用に使われることになった。

Quadra700の購入時にあわせてVideo Spigotというビデオ入力カードを購入した、ということは前述した。そしてこのころから特にであるが私はビデオテープには寿命がある、という厳粛な事実に直面していたのである。私はビデオでお気に入りの場面があると何度もみたくなる人である。ところがそうやって愛情をかければかけるほど早く彼はお亡くなりになっていく。この悪循環を断ち切る方法は何か?Quicktime movieに落とすことである。デジタルデータの偉大なところで、Quicktime Movieだったら何度再生しようが(ハードディスクの寿命が来ないかぎり)劣化することはない。私はいくつかの好きな場面をQuickTimeに落として喜んでいた。

さてそうこうしていうるちに季節は夏を迎え、そして何事もないままに秋に向かおうとしていた。私の長年の同室であったHRが結婚したのはこの年の7月である。彼はようやく家庭をもつことになったのであるが、私はまだ(実は未だにだが)ふらふらしている。そして秋頃急に(特に理由はないのだが)「動きやすくなりたい」という妙な強迫観念にとらわれることになった。

当時の私が何を考えていたか今ひとつわからないのだが、まず始めたことは部屋の中に堆積していたMacLifeなる雑誌をすてまくることだった。この雑誌は米国に行く前に購入をし、結構気に入っていたのである。そして米国からも取り寄せで購読していた。実のところ私のStanfordの部屋にも堆積していた大変由緒ある雑誌なのであるが、ぱらぱらとめくったあげくに捨てに行く、ということを繰り返していたのである。余談だが、この寮には階に一つゴミ捨て場があった。本来であればこうした雑誌の類はゴミ箱に入れても良いのだろうが、不文律として「雑誌、本の類はいきなりゴミ箱にいれず、横につんでおくこと」というのが確立していたのである。そうしておけば回し読みができるからだ。実際私がゴミ箱のよこに積んだ雑誌はそれから1時間後にはあとかたもなくどこかに運び去られていたのである。

さらに余談である。これからしばらくたってのことだと思うが、CD-ROMのゲームがはやり始めた時期があった。MacintoshはIIvxあたりからデスクトップにはCD-ROMドライブを必ずつける、とした機種でもあったのだ。今でこそあたりまえの話だが、これまた発表当初は結構なインパクトがあった。

さてCD-ROMがゲームの媒体として使える、と解ったときにまっさきに登場したのがいわゆるアダルト系のCD-ROMだったのである。そしてMacintoshはCD-ROMドライブ常備という状況も手伝って、ほんの一時期だけだが「HなソフトをみるならMacintosh」という状況が出現したのである。(今では全く事情は異なっているが)未だに忘れられないことだがあるコンピュータ雑誌の編集後記に「MacintoshユーザーってH」なる言葉が書かれた時期もあったのだ。

さてこのMacLifeなる雑誌はその広告の厚さだけでも有名であった。そしてその広告において私はこの雑誌を見離すことになったのである。Hソフトの増加とともに、その広告も増大しつつあった。そしてMacLifeは「広告に制限を設けることは、報道の自由を捨てることだ」とかなんとかわけのわからないポリシーをもって、そういうアダルト系の広告を堂々と山のように掲載する雑誌となっていたのだ。正直いって日本のマスメディアのH関係にカンする倫理のなさというのは私の理解を超えている。どんなに立派な理由があったかしらないが、その当時のMacLifeは下手なエロ本そこのけの、卑わいな写真集及びセリフ集となっていた。私がお年頃の子供のいる家庭の父であれば、とっくの昔にこの雑誌を捨てていただろう。彼らも所詮「自由を主張し、義務を無視する」連中なのだ。自分の雑誌がどのような悪影響を与えるか、全く責任を負う気はないようだ。誌上で何度か論議も目にしたがそのたびにでてくる「報道の自由」なる言葉にいやけがさした私はとうとうこの雑誌に見切りをつけることにした。だから長年お世話になった雑誌であったがこの時捨てるのにさして寂しい思いもしなかったのである。

 

さてあらかた本を捨ててしまうと今度は机の上に堆積しているQuadra700に気が付いた。発売当初こそ画期的であった68040@25Mhzであるが、そのころは「ごく普通の」スペックとなっていた。これには時代の進歩、ということの他にもう一つ理由がある。それにはQuadra以降ここまでのMacintoshの状況について簡単に書いておく必要がある。(とはいってもここらへんは間違いが多いかも知れない。万が一ここまで文書を読んでくれる人がいて、間違いに気が付いて、かつあなたが「無知な人間に教える」だけの度量の持ち主であれば遠慮なくご指摘をお願いいたします)

私が日本に帰ったのが1992年の7月である。それからしばらくして10月に長く続いたIIシリーズの最後を飾る(といっては問題があるような)2機種が発売された。この2機種の話を聞くたびに私は「世界で最も醜悪な姉妹」といわれた英国の2隻の戦艦、ネルソン、ロドネーを思い出したものである。本来新機種の発表というと非常な興奮をもって迎えられる物だが、この2機種はなんとも言えず失望をさそうものだった。

まずその外観だが、前面のデザインはなんとも「フロッピーとCD-ROMとまあいろいろつけてみました」という感じだ。美しさも何もあったもんじゃない。次に当時不評だったのはそれまでほとんどプラスティック製だったケースが、一部(コストダウンの必要からか)鉄製となっていたことだ。これは私にはどうってことはない話なのだが世の中にはこういうことにこだわる人もいるようで。しかし皮肉なことだが、この筐体自体は、それからもPowerMacに引き継がれ、少しずつ変更されながらもとても長く生き延びることになる。

性能は68030@33MHzのIIvxが悪いわけがないのだが、不思議なことに68030@25MHzのIIciよりも遅い、というもっぱらの評判だった。当時のMacWorldかMacUserに「Appleの新機種は新しい性能の標準をうちたてるかと思ったが、、、全く失望した」という一文を未だに覚えている。IIvxでその始末だから、68030@16MhzのIIviがとんでもない速度であったことは想像に難くない。だいたいこのIIviなる不思議な機種の存在自体が謎であった。何故いまごろ68030@16MHzなどという機種を出してくるのか?今から思えばこの2機種はApple内の何かの混乱を示すものだったのかもしれない。

さて「あれはなんだったんだろう」という言葉が沈静化した頃、1993年の2月に新しいCentrisシリーズを含む数機種が発売された。IIvxの筐体はCentris650としてちゃんと生き残っている。このCentris650のデザインは(当然のことながら)気に入らなかったが、新しく登場したピザボックスタイプのCentris 610は気に入った。しかしこれも皮肉なことだが、長生きしたのは650のデザインの方なのである。さてデザインはほおっておいて、ここからしばらくCentrisとQuadraという二つのシリーズが併存することになった。なんとなくされていた発表というのが、「Quadraのほうが上位シリーズ。Centrisはミッドレンジ」ということなのだったのだが、実際はほとんど意味をなさなかった。CPUは多少クロック数の早い、遅いはあったものの全て68040だったから。多少のクロックの差は等は普通に使っている限りではわからない。実際あまり時を経ずしてこの「Centris」なる名称は姿を消すことになる。私のようなひねくれものが考えると、単にApple内部に役職を増やしたいがためのどっかの馬鹿なMBAの提案が通ってこのような意味のないシリーズができたのではないかと思うほどだ。Quadraシリーズ統括部長に、Centrisシリーズ統括部長。ほら椅子が2倍にふえたでしょ。

-さて、この件に関しては、このページを読んでくれた方からご指摘があったので、少なくともAppleの側には明確な区分があった、ということを追記しておきたい。QuadraのCPUは68040であり、CentrisのCPUは68LC040と明確にCPUが区分されていたそうなのである。

何?LCがはいっただけじゃないか、と思われるかもしれないが、この二つのCPUには深くて長い溝がある。68040にはFPUすなわち浮動小数点計算ユニットが内蔵されていたが、68LC040にはそれがない。従って68LC040は消費電力が少ないが浮動小数点の計算能力はがた落ちになる。これはある種の計算をさせる時には大きな差異になる。というわけで少なくともAppleからみればQuadraとCentrisと二つ名称をわけるだけの意味はあったそうなのである。しかしご指摘の事実は認めるとしても、無責任な一ユーザーからすれば、それだけでシリーズを分ける、というのは依然として無理があるとも思えるのだが。-

さてそんな邪推はさておき、この時Appleとしては差を付けたくてもつけられなかった事情があったに違いない。IIvxの評判をみても、いまさら68030を使った機種を中核として出して行くわけにはいかない。しかし長く続いた68KのCPUラインはその命脈がつきようとしていたのである。当時もう次の68060なる機種のスペックは公になっていたはずだが、ライバルの86シリーズに比べて、性能及び登場時期で水をあけられてしまうことは明白だった。Macintoshが登場したときには「CPUは32ビットの68000,8ビットの8068とは桁がちがいます」とかなんとかいう宣伝文句が踊っていたのだが、それから10年近くの後、生き残ったのは誰もが高く評価していた68000ではなく、8086の子孫の方だったのである。かくのごとくこの世界では多少の設計の巧拙などよりもとにかくシェアが物を言うようだ。

さて対するMotorolaとAppleもだまってはいない。「あっと驚く」IBM,Apple,Motorola3社連合の発表とともにPowerPCなる新しいRISCチップの開発が発表されていたのである。(1991年10月)当時はRISCといえばワークステーションのCPUはみんなRISCだったから「おお。こりゃすごい」と思ったものである。これで「目玉焼きができるのではないか」などと言われていたほど複雑で消費電力の大きいPentiumなる妙な名前をもったCPUをけちらすことができるってもんだ。601,603,620という3つのタイプが開発されることが発表されて、「予想性能比較」なるグラフがあちこちで(宣伝用のものも含めて)発表される中、結構またされたあげくに初めてのPowerMacintoshシリーズが発表されたのは1994年3月のことだった。発表までの期待や不安は大きかったが、発表自体及びその後の反応は非常に平々凡々としていた気がする。これは実は結構すごいことだったのだが。

まず見た目初代のPowerMacintoshは控えめなPowerPCというロゴを除けばそれまでの機種と全く同じに見えた。(番号は確かに3桁から4桁になっていたのであるが)スピードはあごが外れるほど速くなったというわけではなかった(少なくとも私が使うアプリケーションでは)しかし大抵のソフトウェアは「普通に」動いたのである。これは一種信じられないほど偉大なことだった。

コンピュータ入門のFAQに「どうして機種が違うと同じソフトが動かないんですか?」というのがある(今時はこんな質問すらないかもしれない)それに対しては「コンピュータの心臓部であるCPUは、それぞれ異なった命令をうけつけます。MacintoshとPCではそのCPUが違うから、同じソフトが動かないんですよ」と言った答えが為される。ところが同じMacintoshでも「心臓部」のCPUがごとっと変わってしまったのである。それまでのソフトが動かなくても当然である。これはほおっておけばとんでもない話だ。一生懸命買ったソフトが全部動かなくなるわけだから。

ところが何故かこれまでのプログラムも(あっけないほど)簡単にそこそこのスピードで動くのである。しかもアプリケーションがどちらのCPU用のコードを持っているかなど気に懸ける必要もない。これは少なくとも私にとっては驚愕ものであった。Apple社開発のエミュレーション技術の勝利である。さてエミュレーションで動いてこのスピードがでるのだから、PowerPC本来のコードで書いたプログラムだったら、きっと飛ぶように動くに違いない、とは誰もが思うところだ。ところがぎっちょん、それからしばらくしてPowerPCネイティブのソフトが出回り初めても、Photoshopのフィルタ処理などを除いてはほとんどその差を実感することはできなかったと思う。(実際このころのソフトなどのレビューではそうした文章をよく見かけたものだ)それどころか、一太郎Ver5のようにPowerPCネイティブでありながら普通のワープロをエミュレーションで動かしたよりも遅くなる不届き物まで存在した。

 

さてこうしてデスクトップ機はめでたく601シリーズ、そして後には604,604eシリーズに乗り換えてスムースなPowerPC化を果たした。ところが私が興味を持ち始めていたPowerbookシリーズがPowerPC化されにはそれから一年、いや実質的にはそれ以上待たなくてはならなかったのである。もともとPowerPCのロードマップには省電力型の603が乗っていた。ではこれがPowerbookに使われる訳ね、と思っていたのだが、ある日MacUserに乗った記事に依れば、「603でエミュレーションを動かしてみたら、やたらと遅い。というわけで603をPowerBookに使うことは諦めて性能向上型の603eを使うことになった」ということである。なんと、これでまたPower PowerBook(当時はPower PC化されたPowerBookはこう呼ばれるのではないかというたわけた噂もあった)の登場はのびたようだ。

さてPowerPCラインの発表の2ヶ月後に新しいPower bookシリーズが発表された。それまでBlack Birdというコードネームで呼ばれていた全く新しいPowerBookシリーズと、Duoシリーズの最後から2番目の機種となったDuo280cである。この時からPowerbookシリーズも全て68040化(正確には消費電力が少ないがFPUの内蔵されていない68LC040だが)されることとなった。クロックは33MHzである。さてここで話がとても長くなったが、ちょっと上のほうに書いた「Quadra700は普通の性能となった」という言葉の説明とつながるわけである。

PowerMacintoshはPowerPCネイティブのアプリケーションがそろうまではその性能をフルに発揮することはなかったし、PowerBookは68040どまりだ。こうなるとMacintoshは全てQuadra700の性能あたりに来ることになるわけである。従って早さだけから考えるともうQuadraに固執する必要はないようだ。おまけにPowerPCによって、68040の命運が早急につきることはなさそうだ。そうなると「動きやすくなりたい」という強迫観念にとらわれている私は新しく発売されたPowerbookの方を見始めるのである。世間の目はどちらかといえば斬新なスタイルとトラックパッドを持つBlack birdに注がれていたが、私はDuo280cの方を見ていた。

 

実は1992年にIIvxと同時にDuoシリーズが発表されたときから、私はDuoシリーズに注目していたのである。最初にpowerbook3機種が発売されたときに私はフロッピを外付けにしたPb-100に注目し、さらにはオーナーになったことは前述した。私の目にはDuoシリーズは私が気に入ったPB-100の「普段使わない物はつけない」というコンセプトをさらに押し進めた物のように見えた。ドックをつければ、機能拡張。持ち運ぶときは最小限の機能ってのは実に理にかなってるじゃないか。

さて私はそう思って喜んでいたのだが、どうも世の中ではこのDuoシリーズの評判は今ひとつだったようである。雑誌の批評とかを読んでも、なんだかよくわからないが、「どうもね。。」のようなものが多かった。一つだけ明白に指摘されていたのはキーボードが使いにくく、すぐアウトになることと、トラックボールが小さすぎ使いにくいことだったが。そんな評判と売れ行きをよそにDuoは210,230,250,270cとなりカラー化された。しかしまだCPUは68030のままだ。68030と68040の性能差を知っている私としてはそれがどれほどAttractiveであっても今さら68030に戻るわけにはいかない。もし今度買い換えるとすれば最低でもQuadra700と同じくらいの性能を持っていてほしい物である。持ち運びができて性能をちょっと我慢したコンピュータはもう所有しているのだ。

ところが待ちに待った68040搭載のDuoの発表である。私はDuo280cがとても気に入ってしまった。性能は今と同じくらい。これなら場所もとらないし、持ち運びだってできそうじゃないか。ドックと適当に選択すれば今までかった周辺機器も無駄にならなさそうだし、、、、などとしばらくうだうだ考えたのだろう。そしてある日私は決心した。Quadraを競売にかけて売却し、その金を元にDuo280cを購入することにしたのである。

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注釈

問題をソフトウェア環境のせいにするのはろくなプログラマではない証拠だ:(トピック一覧)かといってこの信条が自分にもあてはまることを何度も経験したのだが。本文に戻る 

 

自由を主張し、義務を無視する仲間:(トピック一覧)彼らはとても幸せな人生を送れることだろう。本文に戻る

 

英国の2隻の戦艦:この2隻は主砲塔3つを全て艦橋の前方に配置していた。一時大和型もこの種の配置を検討していたぐらいだからそんなに変な配置とも思えないのだが、何故か評判はわるかったようだ。本文に戻る

 

Centris650:もう一つここからしばらくの間、(本当はQuadra700,900それにPowerbookの発表から始まり、1997-8年にG3シリーズが発売されるまでだと思うのだが)Macintoshの機種名は全面的に番号でつけられることになったことも書いておきたい。多分内部的にはロードマップがちゃんとあって、時々飛び番の機種が発生していたと思うのだが。たとえばデスクトップの4000番台はかなりあとから使われている。この番号シリーズには明白な利点があって、これだとまず機種名に困ることがないのである。Apple社の過去に発売された機種のスペックが書いてあるページを見ると、PowerMacintoshの部には、まあよくもこんなにたくさんの種類を作ったもんだ、というくらいたくさんの機種名がならんでいる。そのなかには「あらこんな番号あったのかしら」と思うようなやつまである。日本で発売されなかった機種、あるいはあまりにたくさんありすぎてなんだかわからなかった機種などいろいろな事情はあるのだろうが。まあ番号シリーズのほうが、なんとなく「番号が大きい方が偉い」てきなところがあるから、どこかの国民機のアルファベット2文字シリーズよりはましかもしれない。本文に戻る

 

68060なる機種:このCPUを搭載したアクセラレーターも展示はされたようだ。しかし68040と命令セットが一部異なる、などと事情もあり、結局発売はされなかったのではなかろうか。しかしPowerPC初登場の直後は「68060のアクセラレータのほうが良いのではないか」という声がほんのちらほらあったことも事実である。どんな変革に対してもこういう声は起こる物であろう。本文に戻る

 

3社連合の発表:ちなみにこの時発表された共同プロジェクトはPowerPCのほかに「マルチメディア制御用のスクリプト開発」「オブジェクト指向OS-Pinkの開発」とあったが残りの二つはどこかに消えてしまった。本文に戻る

 

とんでもない話だ:実際SunなどSun3からSun4に移行したときに68020からSPARCへとCPUを変更したわけだが、誰も文句を言わなかったのにとても驚いた物である。本文に戻る