春になれば

日付:1999/2/26

五郎の入り口に戻る


5章

3月10日という日を聞くと私はいまから18年前の事を思い出す。このとき私は大学受験が終わって一人で四国をふらふら旅行していたのだ。この旅行にはいろいろなことがあって、未だに話のねたになっているようなこともあるのだが、ここではかかない。3月10日、私は宇和島という都市のきれいな旅館にとまることになっていた。

そしてこの日は私が滑り止めにうけていた私立大学の合格発表の日だったのである。とはいっても仮に合格してもお金を払う気は毛頭なかった。当時は若かったので「まあ国立にすべれば浪人すればいいや」と頭から思いこんでいたのである。

合格発表は姉が見に行ってくれた。私が実家に電話をすると「うかったよ」という答えが聞けた。ここに落ちるようだと第一志望はどう考えても受かるわけがなかったのでほっと一息である。だからこの晩はとても晴れやかな気持ちだった事を覚えている。何かきれいな夜だった。

 

それから18年後。当時の希望と不安に燃えた青年の面影はどこへやら。腹がでたくたびれた中年となった私はまだちゃんと生きている。そしてAnswering Machineの赤いLEDの点灯をみながらどうしてもそれを再生することができずにいる。不安と失望の予感におびえながら。

 

M−Tは面接の後にアンケートを出してくれと言われた。それを投函したのが今朝である。もうそろそろ返事がくるかなと思いながらあまりに返事がこないので「あれはだめだったか」と思い始めている。そして郵便受けを細かくみている。不合格ならばまず間違いなく連絡は書面でくる。ところがまだ返事はこない。

そう思って部屋の中の階段を上ってみればAnswering MachineのLEDが点灯している。M−Tのほかに私はもう一つ思い当たる節があった。「その道のプロ」に本来ならば6社のうち、Tをのぞいた5社に対してどうするかを返答せねばならない。しかしなんとなく面倒なのでそれを怠っていたのである。資料がついてからもう一週間だ。。。

返答をするのをためらっている理由はもう一つある。こちらが電話をしたついでに「申し訳ないんですがTはNGになりました」と言われるのをおそれているからだ。TがNGになるということは確実に将来の選択肢が一つ減るということだ。

 

まず私はナンバーディスプレイの表示をチェックした。かかってきた番号は名古屋の市外局番である。ということはこの電話は「その道のプロ」からのものだ。そこまではわかった。

なのにどうしてもまだ再生することができない。いっそこのままみなかったフリをして明日までのばしてみようか。それで何が解決するというわけではないけれど。

 

以前にもこうして胃がひっくり返るような思いをしながらAnswering MachineのLEdを見つめていたことが何度かある。そしてそれは「合コンのお礼」だったり「結婚式の2次会の打ち合わせ」だったりしたこともしばしばだ。当時の若い大坪君はそのたびに泣くような思いをしたものである。今は極端に高揚した気分も落胆した気分もない。しかしやはりうれしい知らせのほうが望ましい。

ふたをあけなければ、どちらともわからない間は希望も不安ももてる。しかし今はそんなことをしている場合ではない。吉とでようが凶とでようが前に進むしかないのだ。

と思い切ろうと思ったがなぜかまだそのボタンを押せない。私は「その道のプロ」の電話番号とナンバーディスプレイに表示された番号を比べてみた。

すると局番が全然違うことに気がついた。「その道のプロ」の局番の頭は2で始まっているが、表示された番号は5ではじまっているのである。何だこれは?私は意を決してボタンを押して再生した。

「TK銀行の○○ともうします。3月7日に振り込み。。。」

と相手は中年女性の(たぶん)名古屋弁であった。いつも世の中はこういうふうにできている。私は予測をたてるのが大変好きだ。自分以外の事に関しては結構あたるが、自分の事に関してはあたったことがない。もう今日は寝よう。

 

翌日ねぼけまなこでNiftyserveにアクセスしてメールをチェックした。インターネット上のSim-carrerというサイトに去年登録しておいた。就職が決まったときには「この登録も削除せねばならんな」と思っていたが、面倒だからそのままにしておいた。そこからは月のはじめに「新たにX社の優良企業が参加しました」とかいって情報を送ってくる。いまとなってはこれも結構役にたつものなのかもしれない。最初にいた会社の登録などをみていると結構おもしろいものがある。

さて、画面上に流れるメールをみていると(インターネット経由のメールと違って、画面上にだらだらとメールを一度読み流して、そのあと表示する方式なのである)そのSim-carrerかあメールが届いていることだけはわかった。まあまた「情報の訂正」とか「お得なお知らせ」とか「サイト利用者にアンケート」とかいうのだろう、と思ってそのままにしておいた。

あとでメールを読んでみると「あなたに興味をもった企業からのメッセージです」という内容だ。何がおこったのだ?

このサイトではシステムとして、こちらからの応募のほかに企業の担当者も自由に履歴をみてメールを送ることができるようになっている。今まで2通ほどメールをもらったことがあるが(1年の間でだ)一通はどっかの生産技術者。一通はCADをやっている会社でその会社の社員は26名だった。考えてみればサイト経由応募してくる人間の数だけでも相当なものにのぼるだろう。それをさばくだけでも大変なのに、特に応募もしてこない相手をいちいち検索する、なんてことを採用担当者がするわけがない。

さて今度はどんな会社だろう、、と思ってみてみれば略称BCという会社である。実はこの会社の名前には聞き覚えがある。入社時の概況説明で「この業界で非常にうまくやっている会社」として説明をうけたことがあるのだ。なんと同じ業界か。。。正直言ってこの半年何が正しくて何が間違っているかよくわからないこの業界のやり方にうんざりしていて、「何があってもこの業界にはこれ以上いない」と決心を固めていたところだった。そこにこのメールだ。世の中だいたいこのようにできている。

ぶつぶつ言いながら傍らにあったTech-Beingをとってみると確かに乗っている。不思議なことだが名古屋の事業所もあるようだ。私はちょっと考え直した。派遣はごめん、名古屋勤務か東京でおもしろい仕事という条件をつけて応募するならそんなに悪い話ではないかもしれない。少なくともNTT-Softよりはまともな会社だろうし(NTT-Softは「会社」の名前に値しないところだという気もするが)名古屋勤務ができればめっけものではないか。少なくともパチンコの機械を作るよりはまともな職業だ、という気がする。(もしかしたらBCからパチンコ屋に派遣になるかもしれないが)

贅沢を言っていられる場合ではない。転職の限界の35はあと1日しか残っていないのだ。その伝説が本当かどうかは別として今の私には前に進むしか道は残されていないのだ。私はその企業にも応募の書類を送ることにした。また履歴書タイムだ。

 

その日は6時半にJR横浜駅の東京側の改札、ということだった。午後の1時半からは臨時マラソン会議が行われていた。私の上司はたくさんの人を前に演説をぶって大変幸せそうだった。私は「その会議にでなくていいの」と言われたが「いやいや、私のようなものが、あのような神々しい会議にはでることはかないませぬ」と言った。

さてその会議は例によって休憩をはさみ5時すぎまで延々と続いた。私が6時半に横浜につこうと思うと5時45分にはここをでなくてはならない。(実際おくれるかと思って参加者の一人に「送れる可能性が高い。いずれにしても携帯に電話するよ」と言っておいたのである)さてあの演説会はいつまで続くか。そんなことを考えながら私は暗号に関する調査結果をまとめていた。実際最近でなくてもやることはほとんどないから、こうして何かネタをみつけて勉強していたのである。本来は無味乾燥な箇条書きになるはずだったのが、どうにも書き出すととまらない。いつの日かこの文章は私のホームページを飾ることになるだろう。

さて会議は5時半ころに終わった。私は予定通り5時45分に会社をあとにした。

横浜までは京急で一本だ。正直言えば今日は会議に捕まって遅れてもそれほど気にはしないような状態だったのである。今日あう二人は私の友達だが、彼らと会話して楽しいかどうかは時の運にきわめて依存する。そして私は運にかけるほど最近は楽観的ではいられない。

さて電車は無心に走り、いつの間にか横浜についた。だいたいJRの東京側の改札ってのはどこなんだ。。。と思ってたぶんここであろう、という場所を見つけた。時間はまだ5分前である。ふと周りをみれば、ここは一種の待ち合わせ場所のようである。人をきょろきょろ見回している。いつもながらどんな人にどんな人が現れるのか、というのはみていて興味深い。中には合コンのたぐいであろうか、という一団もいる。この場所で合コンの待ち合わせというのはあまり魅力的なオプションではないかもしれないが、そうせざるを得ない場合もあるのだろう。

さてまもなく時間となったが彼らは現れる気配がない。だいたい初めての待ち合わせ場所でもあるし、ここが正解である、という確証もないのである。10分すぎたところで私はその周りを公衆電話を探すのもかねて一回りしてみた。考えてみれば最近は高校生でもなんらかの携帯機器を持っている。こんな場合だけは携帯がほしいと思う。しかし冷静になって機種を選定する段階になると月々の使用料金が重くのしかかってくる。これまたもっと冷静になって考えればたぶん携帯の料金くらい、私が毎朝がぶのみしているコーヒーをやめれば簡単に捻出できるのだろうが。

さてそんなことを考えてはみるが、彼らは現れない。時間はそろそろ45分だ。私は遠征して公衆電話を探し当てた。

番号を回せば(考えてみればここは最近はどういう表現を使うのだろうか)ちゃんと呼び出し音がする。それまで携帯の電話番号が間違っていたらすべてはアウトだな、と思っていたからとにかく(相手が誰かはまだわからないが)通じたのでホット一安心である。しかし呼び出し音が何度なっても相手はでない。そのうち「ただいま電話にでることができません。メッセージを。。」と言われた。私は「大坪でございます。いまそこそこにまってます。では」と言って電話を切った。相手は何をしてるんだ?

さて元の場所に戻ってみれば相手がすれ違いで到着していた、、という落ちかとおもったらそうではない。結局相手はいつまでたっても現れないのである。私は待ち合わせで待たされるのがあまり好きではない。最近年をとって鈍くなったせいでいぜんより嫌いではなくなったが、それでも嫌いだ。だいたい30分まって相手が現れなければ帰ることにしている。とはいうものの実際にはたいてい45分くらいまって、一度帰るつもりで待ち合わせ場所を離れるが5分後くらいにまた戻ってきたりするのだが。

さて今日はその「タイムリミット」に近づいてきた。相手が女の子だったら鼻の下を伸ばして「まあいろいろ都合もあるだろうから」などと寛容なフリをして1時間でも待つのだろうが、今日の相手はまあ長年の知り合いの男二人であるからそんなに寛容さを発揮する気もあまりない。私はもう次のプランを考え始めていた。私がいつも降りる弘明寺の一つ手前の駅にはおいしい中華屋がある。毎週金曜日はそこで晩飯をたべることにしている。一週間いきのびたご褒美というやつだ。実際何か楽しみの目標をたてなくてはとてもあの職場で生きていくことはできない。

さてそろそろタイムアップだ。また電話をしてそれでつながらなければ中華屋に直行だ。

公衆電話でまた電話をかければ聞き慣れた呼び出し音、、ところが今度答えたのは携帯会社の留守番電話メッセージの女性ではなくて、今日の参加者の一人YZであった。彼は私が元いた場所で待っているという。なんのことだ?今私はそこにいたのだが?

とにかく戻ってみるとKBとYZがいた。それから我々はつれそってYZご推奨の店に向かい始めた。「いったい何があったんだ?俺が待っていた場所が間違っていたのか?」という質問に対するYZの回答は以下の通りである。

最初に私が電話をしたときは、YZが電車のなかで寝ていた。(要するに彼は遅れたわけだ)でもって待ち合わせ場所につくまえにKBとも出会うことになった。「遅れる可能性が高い」という私のメールをみたYZは、待ち合わせ場所に行くことなしに(どうせ私は遅れてくるだろうから先に行ってようと思って。私は「遅れる可能性が高い」とは書いたが「遅れる」とは書いていないのだが)KBとつれそって駅をでた。そこでふと思いついて携帯をみてみるとメッセージが入っている。泡食って待ち合わせ場所に戻ったところに私の2度目の電話がはいった、ということらしい。彼らとは長いつきあいだから、これくらいのことは慣れっこだ。

さて最初にYZが案内してくれた店は1時間待ちだった。次に行ったところは店の外まで長い行列ができていた。3っつめも満員だという。私はそれまで彼に「別にどこでもいいよ」と言っていたのだが、彼はホストの義務で頭がいっぱいのようだった。3っつめの場所は飲み屋がいくつかはいっている場所だったから「ここでもいいんじゃない」といって反対側の店に行ってみるとあいているという。我々はそこに腰を落ち着けることができた。気楽な感じだがちょっとしゃれている店で大当たりである。いわゆる飲み屋なのだが女性とかカップルがとても多い。

さてそこで3人で飲み始めてた、、ということになるのだろうが、私は最初のビールを半分のんだところでそれ以上飲めなくなった。私は飲む量がその時の機嫌に極めて依存する人間である。それでなくても最近は心身症だからなかなか酒を飲む気になれない。

理由はもう一つある。今日はメンバーを聞いて多少予想していたいことがある。そしてそれはその通りだった。今日の会話はまるで金正日と郷ひろみか掛布の討論会のようだった。なんのことだって?

金正日はその声が西側に放送されたのが一度しかないことで有名である。以下は秘密裏に録音された彼の言葉の日本語訳だ。

「今では社会主義をおよそ30年間やってみると、人民をたべさせて、生きると言うことは西側世界に進出しなければとうていできない。厳然と西側世界より遅れているんですから。今。それを人々が今この問題意識が、このとても問題意識がとても重要なんですが、このわれわれが今克服するためには、東ヨーロッパの国々は今ちょっと苦しいでしょう」

この言葉を読んだ人がどういう感じをいだくかは知らない。しかし今日私の目の前でとびかっていた会話の60%はこんな感じだった。

郷ひろみと掛布は私が知っている限りでは、1秒でいえる内容を10分くらいに(彼にとっての)難しい言葉を含めて引き延ばす名人である。いつかの紅白歌合戦では白組の司会が郷ひろみを「若い人には珍しく、自分の言葉で自分の考えを語れる人」と紹介していたが未だにあれが本気だったのか皮肉だったのか釈然としない。

会話はキャッチボールというのが私の主義だ。相手がなげてくるボールをよく見て、それにあったボールを投げ返す。相手がカーブをなげてくれば、それにどんな意味があるのかな、とか思って今度はシュートを投げ返してみようか、と思う。

今日の会話はキャッチボールにたとえるとこんな感じだった。

 

ひとりが直球を投げる。

それを私がひろって、直球を投げ返す。

受けた相手はボールをこねまわしたり、自分の頭の上に投げあげたり、して10分ほど一人でなにかやっている。こちらはそれが何を意味するのだろう、と思ってじっとみている。結局何も意味しないことに気がつく。

隣からいきなり野球のボールではなく、バスケットボールが飛んでくる。今度はバスケットをやりたいわけね、と思ってそちらをみればもう相手はサッカーのユニフォームを着て足でボールを蹴っている。

何が起こったのだろう、と思っているとまた別の方角からピンポンボールがとんでくる。誰もそれを拾わない。投げた人間もそのことを気にするでなく今度は壁に向かって野球のボールを投げる。

 

何がなんだかわからないだろうが、実際こうだからしょうがない。こうした場所にいれば昔だったら疲れ果てたかもしれないが、彼らの会話はだいたいいつもこのパターンだから別にどうということはない。ただ二人がそろうとさすがに迫力がある。これが心身症を忘れて酒を飲ませてくれるほど楽しい会話でないことは言うまでもない。しかし彼らは大変楽しそうだ。お互いを「酔っぱらっている」「いやしらふだ」と言い合っている。私はただほほえんで聞いている。彼らには申し訳ないことだが私は彼らの会話のペースについていくことができない。英語がさっぱりしゃべれなかったころに間違って食事など行くとこんな感じだったななどと思い出しながら。

そのうち一人が「大坪さんはどうやってストレスを発散させているんですか」と聞いた。なるほど。彼らにとっては酒を飲んでこうしたノールールキャッチボールをやることはストレスの発散に役立っているのだろうか。よく言われるのがバンドで大声で歌ってストレスを発散させているのでしょう、というのがある。私はいつもそれを笑って聞き流しているが、とんでもない、と思うことがある。私が歌が好きだ。だからそれなりにいろいろ気を使って歌っている。別に腹にたまったものを吐き出すためにわめきちらしているわけではない。たぶんそう聞こえないのは私の歌が下手だからだろう。

その質問をした男はMy miserable life contestが大変得意な男だ。以前彼は相談をしているかと思って、彼がはく言葉に受け答えをする、という大変おろかなことをした。彼は相談をしているのではなく、愚痴を言っていたのだ。ぐでぐで愚痴を言ってる暇があったら、自分でなんとかするよう努力しろ、というのは私のなかなか達成できない信条だが、これは大変「変わった」考え方であることに気がついたのは彼のおかげかもしれない。私はふと考えた。確かに酒を飲んでノールールキャッチボールをやることで仕事のうさがはらせるのであれば、私は未だに○○重工で平和にプログラムなど作っていたかもしれないな。いかし私にはそれはできない。文句があれば、酒でわめいている暇があれば改善しようとするのが私の性のようだ。そしてまた職を探そうとしている。

どちらが幸せかはほかの条件を同一にして比較しない限り答えはでない。そんなことは不可能だ。従って考えてもしょうがない。

彼らはだまって笑っている私に気を使ってくれてその場をお開きにしてくれた。ありがたいことだ。私が彼らの会話のペース(会話かどうかは人によっていろいろ見方はあるだろうが)についていけないばかりにこの宴会は早めにお開きになってしまった。私はにっこり笑ってその場を後にした。地下鉄をおりて家まで歩いた。昔だったらこうした宴会の帰りは疲れ果てて杖にすがってあるいていたものだ。しかし今の職場にだてに半年いたわけではないようだ。私はいつのまにか訳の分からない演説会に耐性ができたようである。月が明るい。今日は私の36回目の誕生日だ。

会社にはいってからの誕生日をいくつか思い出した。富士の裾野に出張にいってよれよれになって帰ったこと。土浦の町を一人でとぼとぼ歩いていたこと。デトロイトで冷凍になっていてそんなことを忘れていたこと。そう考えれば今日はましなほうだったかもしれない。

とぼとぼとアパートに戻った。いつものとおり鞄をおいて、ぱたぱたと穴だらけのセーターとジャージに着替えて階段をあがる。習慣でAnswering Machineをみる。LEDはやたらと点滅している。数えてみると4つメッセージが入っている。何がおこったんだ?

ちょっとしゃきっとして着信記録をみてみた。実家と千葉にいる姉から一回ずつ電話がはいっている。私はちょっとあわてだした。何かあったのかもしれない。私が彼らと飲み屋にいた間に家族は私に何か緊急に伝えたい用件があって、探し回っていたのかもしれない。

 

すっかりしゃきっとしてメッセージを再生した。最初のメッセージは母からのものだった

「お誕生日おめでとう。ちゃんと仕事するのよ。こっちはみんな元気よ」

2番目のメッセージには何も言葉がはいってなかった。Answering machineのメッセージにとまどったような雰囲気が残っていたからたぶんこの電話番号の以前の所有者の知り合いだろう。

3番目はM−Tからのものだった。例によって「電話をください」というやつだ。となればたぶんこの前の面接はOKだったか?しかしこの日はもうそれ以上頭はまわらなかった。とにかく来週また電話をしなくちゃ。

4っつめは姉のところの一番上の姪からのものだった。

「ごろう。お誕生日おめでとう。(小さな声で:あと何言えばいいの?)あとバレンタインのチョコまだとってあるから取りに来てね」

姉のところの子供は以前私にチョコレートをくれたことがある。ありがとう、と言ったが彼女たちはそのまま曖昧なほほえみを浮かべている。私は姉に「彼女たちは何を待ってるの?」と聞くと「お礼に何かもらえると思ってるのよ。1000円でもあげれば」と言われたので千円札を渡すと彼女たちは笑顔で「ありがとう」と言った。

 

もう一度再生してM−T社の電話番号を書き留めた。しばらくぼっとした。

家族というのはありがたいものだ。本当に。「蒼天航路」のなかで父が殺された、という報をうけとった曹操が「身を休めることのできた親というひさしがなくなった」と言うシーンがある。36にもなって親のもとに身を休めている、なんてのはあまり誉められたことではないと思う。しかし今の私にこの言葉はとてもうれしい。

 

この週末はとても暖かく、春は間違いなくそこまで来ているようだった。3月14日は日本と韓国だけに存在するホワイトデーなる日であるようだった。私には関係のないことだ。T社へのアプローチを頼んでいる「その道のプロ」からは今週も連絡がなかった。所詮は無理なあがきであったか。

 

次の章


注釈

自分の事に関してはあたったことがない:(トピック一覧)ながれながれて私はここにいる。本文に戻る

 

私は飲む量がその時の機嫌に極めて依存する:(トピック一覧)もちろん逆に大飲みすることもある。本文に戻る

 

彼の言葉の日本語訳:この部分は「北朝鮮 その衝撃の実像」(参考文献一覧)からの引用である。本文に戻る

 

会話はキャッチボール:(トピック一覧)このことを実感するのは合コンの時が多いのであるが。本文に戻る

 

My miserable life contest:(トピック一覧)日本語で言うところの「不幸自慢」であるが本文に戻る

 

ぐでぐで愚痴を言ってる暇があったら、自分でなんとかするよう努力しろ:(トピック一覧)ときどきこの言葉は自分の首を効果的に閉めてくれる。本文に戻る

 

蒼天航路:(参考文献一覧)この漫画から引用する機会の多いこと。本文に戻る