東北の夏祭り-1年後

日付:2000/7/31

五郎の入り口に戻る

出発 | 弘前ねぷた祭り | 三内丸山遺跡 | 青森ねぶた祭り


青森ねぶた祭り

日差しが強くないのが救いだが空気はさわやかとはとても言い難い。その中を重い脚をひきずって歩く。目的地は決まっている。青森にはなんだか知らないが二等辺三角形の形をした物産館のようなものがある。あそこにいけばまあ涼しく時間がつぶせるに違いない。

その前に昼飯を食べたい物だと思ってきょろきょろしながら歩く。そのうち

「カレーパーラー」

という文字が目に入った。私はカレーが大好きだ。こんなに暑くて食欲がないときでもカレーならはいるだろう。

さっそく店に入ってみる。なんだか妙に暑い。エアコンは確かに騒音をあげているが、果たして本当に動作しているのだろうか。とにかく注文をだす。きっと外からはいったばかりで冷房が効いていないように思えるだけにちがいない。しばらく座っていれば涼しくなるだろう。

しばらくしてカレーが届いた。ハンバーグカレーを注文したのだが、ご飯の上にのっているものはハンバーグという概念よりはんぺんに近い気がする。店主とおぼしき男に

「すいません。冷房の温度をさげてもらえますか」

と言った。私はこうした文句は滅多につけない男なのだが、少なくとも外の暑さを考えればもう少し店が涼しくてもばちは当たらないと思うのだ。

それに対して店主は何事かつぶやいた。私には全く聞き取れなかったが最後に

「すいません」

と言ったことだけは聞こえた。彼がその後何もしなかった事を観るとおそらくこの店の冷房は騒音はたてるが空気を冷やすのには役にたたないのではないか。

カレーは基本的にまずかった。ハンバーグは小さかった。値段は950円もした。そして外に出るとなんと店の中より外のほうが涼しかった。

 

これでご機嫌になれ、というのはちょっと無理かもしれない。とにかく二等辺三角形のビルを目指してあるく。どうやらこのビルの名前はアスパムというらしい。きっと市民から募集してつけた名前かなんかなのだろうが、これだけではなんのことかわからない。入り口近くに漁業組合の立派なビルがあり、その前には標語が大きな垂れ幕に書いてある。曰く

「21世紀は漁村の世紀」

漁村の世紀とはどんな世紀なのだろうか。

 

それからしばらくの時間をアスパムの中をぶらぶらしてすごした。子供達がたくさん元気に遊んでいる。白人の子供も多かった。観光客なのかもしれない。裏に回ると格納庫のような物があり、その中にねぶたの山車がいくつも並んでいることに気がつく。思うにここで準備を整えた山車は夕方に

「出動」

するのだろうか。昼の光の中では山車はあまりきれいには見えないがその大きさと細工の細かさは印象的だ。

 

時計を観るとようやく時間のようだ。ホテルに向かう。入り口近くに

「シングル:6500円から」

という垂れ幕があるのが目に付いた。仮に朝食を1000円としても、10000円というのはずいぶんなねぶた祭りスペシャルプライスだ。これでまた私はブルーになりかかるが

「しかし今の私にとって冷房が効いて昼寝が出来る場所がある、ということはなににも増してありがたいことだ」

と自分に言い聞かせる。チェックインをすませて部屋にはいるとあれこれ脱いでベッドに倒れ込んだ。とりあえず夕方までお休みなさい。

 

さて、目覚めるとあと2時間あまりでスタートのようだ。のそのそと起き出す。

表にでるとすでに祭りがとおるであろう通りには昨日と同じく場所取りが始まっている。ただ通り自体および歩道が昨日の弘前に比べると遙かに広いのでさほどそれらがじゃまになるわけではない。ちらほらと祭りの衣装らしき物をきた人たちが歩いているのが見える。

さて、晩ご飯だと思って目についたところにはいる。そこに「いくら丼」という文字があった。1600円もするがこの地理的状況を考えれば横浜で食べる物とは違ったおいしさがあるかもしれない。私は多少の期待もこめてオーダーした。この店も今日は祭り用のシフトになっているらしく顔に

「高校生のアルバイトです」

と書いたような女の子が必要数の3倍はいるように思える。

ぼんやりとしているとそのうち目の前にいくら丼が運ばれてくる。さっそく食べてみると横浜で食べる物と全く変わらない。単に値段が高くなっただけだ。うむ。今日はどうにも当たりが出ない日なのか。

 

時間はたっぷりあるからのんびりと歩く。こうした祭りではやはり行列が曲がる角に人が集まるようだ。いろいろな角度から観れるし、実際派手な動きもするのだろう。ふと思い立って近くのデパートにはいる。屋上に上がってみると町の様子がよく見える。通りを遠く見れば、すでにいくつかのねぶたがゆっくりと動いている。となりではカメラマンとおぼしき男が大砲のようなカメラを2台据え付けようと奮闘中だ。

しばらくそこで時間をつぶして再び通りに降りる。通りの途中にある十字路に陣取ることにした。すでに横の道にはいくつものねぶたが待機しており、順番にメインの通りにはいっていく。まだ日は沈んでおらず明るい中に浮かび上がるねぶたは美しいがどこか間が抜けている。

 

そのうち時間が来たのだろう。どうやら祭りが始まったようだ。これまでに観た祭りは必ず先頭に市役所だの市長だのがいたのだが、今日の先頭は幼稚園である。

行列の構成は基本的に昨日観た弘前のものと同様だ。ただ扇形をした灯籠の変わりに人間をあしらったねぶたが動くわけである。その後ろに太鼓だの笛だのがつづくのもかわらない。ただし太鼓は基本的に昨日観た物より小さめである。だから太鼓の上に人がまたがっているなんてことはあまりない。また太鼓のうしろに何本かマイクがつきでていて、そこから後ろの笛の音をひろって増幅し、スピーカーから流している。一般的に昨日にくらべると機械力を非常に活用しているように見え、昨日は自衛隊だけが使っていた投光器も多くの団体が使っている。確かに見栄えはいいのだろうがなんだか風情に欠ける気もする。

一台一生懸命二人がかりでなにかやっている台車があるから、なんだろうと思えば発電器のエンジンがかからないらしい。せっかくの機械力も発電器が電気を供給してくれてのこと。私が観ている間中彼らは奮闘していたが、起動には成功したのであろうか。

さて、最初のいくつかの団体はいささか単調であった。幼稚園だのなんだのが続くのだが、どこも代わり映えがしない。ねぶた、というものの絵柄は基本的には一つのパターンしかない。幅はかなり自由に使えるものの、高さは電線の高さで押さえられている。従って全体の大きさは横に長い長方形になり、そこに何かの戦いの絵柄を書こうと思えば、左右に人が別れるしかない。そして長い槍だの剣だのを描こうと思えば、これは横にするしかないわけだ。するとデザインの自由度はかなり制約される。

通りを歩いているとき、ところどころ地元の中学生がねぶたについて調査した内容を壁新聞(懐かしい言葉だ)のように張っていてくれるのに気がついた。読んでみるとねぶたの歴史などが書いてある。そこにでている内容によると、電線がなかった時期のねぶたのほうが今のものよりも大きかったそうだ。明治に青森をはなれ、その後何十年間ぶりに青森のねぶたを見た人の感想は

「大きさは別にどうということはないが、明るくなって、細工が細かくなったのには感心した」

とのことである。その後明治時代のねぶたの写真をみる機会があった。電線がないから、高さを制約するものは構造上の強度だけである。デザインに制約がないから何かが雄々しく直立している。確かにあれを見た人が今のねぶたをみて感心するのは電灯による明るさの向上と、針金の使用による細工の細かさだけかもしれない。

などと考えているとそのうち市役所、県庁の類がやってきた。そしてその後の行列から考えるとここより前にきたものは前座と言うべきものだったか、とも思うのだが。

先頭にいるのは、市長に県知事である。そしていつものことだがその後ろに助役だのなんだのがぞろぞろと続く。道ばたの観客達の反応を見ているとどうやら市長の方が県知事よりもはるかに人気があるようだ。県知事はどちらかと言えばやせ形の神経質そうな男で、一生懸命にこやかに手を振っているが観客の反応は冷ややかだ。

その後ろにはこれまたお約束の「ミス」なんとかが続く。機械力活用の青森ねぶた祭りだから、ミスが乗っている車にもちゃんと投光器が取り付けられており、夕闇の中にミスの顔だけが照らされて浮かび上がるようになっている。

 

その後ろにはいろいろな着ぐるみが続く。ミッシェル君とかいうマスコットがおり、観客に一生懸命愛想をふりまいているのだが、残念なことに何をかたどったマスコットなのかわからない。後に色々な物をみた情報も含めて判断すると、あれはおにぎりだったのではないだろうか。ちなみに昨日は青森のリンゴを使ったマスコットが多かったが今日は妙に金魚が多い。金魚が青森の特産物かどうかについては私の知るところではない。

さて、市役所であるから、市民にたいするアピールも忘れない。昨日は

「水道料金は口座振り込みで」

だったが、今日は

「10月1日は国勢調査」だった。 

さて、その後に続く団体は企業などが多くなってくる。そして私が先ほどまで「デザインに制約がある」と思っていたねぶたも、その制約の中で実に凝ったものになってきた。前からだけでなく、横から後ろから見ても違った絵柄が見えるようなものがある。そして時々ただ前に進むのではなく、蛇行してみたりする。そうすると観客から歓声があがる。

そのうち「三菱グループ」なるねぶたがやってきた。かかげているのは「花笠着用ポリシー」とかいうもので、要するに跳人と呼ばれる人間はきちんとした服装をしよう、というものらしい。

この「服装はきちんとしよう」というのは、昨日青森を通過したとき、駅にはってあったポスターで気がついていた。私がたくさん持っている信条の中にこういうのがある。

何かが声高にさけばれていれば、現実はそうなっていない

こんなポスターがあるからには、よっぽど変な格好をしている人間が多いのかな、と思ったが別にそんなことはない。このポスターには

「正式な跳人の衣装」

なる解説がなされており、通り沿いにも

「跳人の衣装貸します」

という看板もいくつかでている。しかしながらこの「正式な衣装」を着るとまず第一に暑そうだし、第二にほとんど顔が見えない。まるでわざわざ顔を隠している過激派かギャングのように見える。顔を隠しているし、同じ衣装だから年齢どころか男性と女性の区別もつかない。

そのためかどうか知らないがきちんとした格好した人は少数派だ。しかしこの三菱グループはスローガン通り、皆きちんとした格好をしている。

この「ハネト-跳人」は変わった名前だと思っていたが、そのうち理由がわかった。彼らの

「正式な踊り方」

というのは本当に跳ねるのである。片足でけんけん。別の脚でけんけん。実につらそうな踊りで、いつか漫画でみた柔道部の練習メニューにこういうのがあったことを思い出す。はたしてあの踊り方で何分続く物だろうか。

この踊り方をみていて、先ほど通った「ミス」を観ていて心に浮かんだ疑問に答えがでたような気がした。

「ミス」は2種類ある。「ミスねぶた」と「ミスはねと」である。そして彼女たちの顔を拝見した時、この2種類のミスは明確に別の基準で選ばれているようだったのだ。どうやらこの「ミスはねと」のほうは顔の構造よりは体力で選んでいるのではないか。

さて、こうした団体と団体の間には、一般参加のエリアがあるらしい。時々沿道からあれこれ着飾った若者がどっと通りにでていく。格好はそうおかしくないが、踊り方はかなり変則的だ。拍子を取った笛をふき、それに併せて一斉に飛び上がる。それが終わると今度は2−3人を中心にしておしくらまんじゅうのような形で集まっていく。若さとは偉大なものだ。ありあまったエネルギーが沸騰している気がする。ただし祭りとして観たときにはあまり面白い物ではない。これに一番近いのはサッカーの応援風景だが、それであればわざわざ青森までこなくてもTVでいくらでも観れる。

 

そのあと親愛なるNTTも通る。ここは三菱グループとは反対に仮装をして通って行くが、その受けないことたるや気の毒な程だ。どっかのガス会社ではプロパンガスの格好した男がよれよれと歩いていた。こちらのほうは面白かった。仮装もやはり徹底しなければ笑いはとれない、ということか。自分たちの内向きの理屈だけで生きているNTTに観客を意識した笑いを期待する方が間違っているのかもしれない。

行列の最後は自衛隊である。日頃から鍛えているだけあって、正式の格好をし、花笠をかぶりながら踊りまくる体力はみあげたものだ。前述した運動部のトレーニングのような踊りを続けながら疲れた様子も見せない。

自衛隊の列が終わりに近づくにつれ、様子が変なことに気がついた。警官がやたらといる。これはどうしたのか、と思っていたがそのうち理由がわかった。列の最後に暴走族のような格好をした人間がたまっているのである。いかななる技を使ったか知らないが、そうした連中を一カ所に集め、おまけに警官が縄で囲っている。囲われた方は時々文句を言っているが、特に喧嘩になっているわけでもない。

そういえば時々祭りで暴走族と警官の衝突がある、というニュースを聞いたことがある。このねぶたもその害に悩まされているのか。跳人の服装に神経質になるのもこうしたことあってだろうか。

そのうちなぜ列の最後が自衛隊になっているのか解るようなきがした。警官は彼らの周りを囲っているが、人数から言えば囲われている人間のほうがはるかに多い。彼らは数をたのみに別の団体に悪さをしかけることもできるわけだ。

しかし彼らが警官の包囲網を突破したとしても、そこには跳人の踊りをずっと続けて疲れも見せない自衛隊の人が何十人もいるのだ。飛び道具でも使わない限り返り討ちにあうのは火を見るよりも明らかだ。

 

そんなことを考えながら、行列の最後-暴走族に自衛隊-と平行して歩いてホテルに向かう。ふとふたつのことに気がついた。今日は「八甲田山」の中の一シーンは思い出さなかった。この祭りはあまりにも今風だ。とても凍死間際に思い出しそうにない。

もう一つは、いつもなら体重に悪い影響があるのを知りつつ、暑さにたえかね冷たい物を飲むのだがそれをしなかったことだ。行列が通った後のがらんとした空間を通る風は心なしかひんやりとしている。パンフレットにあった

「この祭りが終わるとかけあしで秋がやっている」

というのは本当なのかもしれない。 

 

 


注釈

何かが声高にさけばれていれば、現実はそうなっていない:(トピック一覧)現実がそうなっていれば叫ぶ必要はない。本文に戻る