題名:何故英語をしゃべらざるを得なくなったか

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日付:1998/5/29

 


8章:一ヶ月の出張-Part2後半

さていよいよ「米国人相手」にプレゼンの練習をすることとなった。相手はSAM副所長、そしてSAICのとりまとめことPastrickを含む数人である。私がTop batterでしゃべりだした。

別にしゃべるだけならばさんざん練習したことでもあり、問題はなかった。終わった後にPastrickは下を向きながら"Very good"と言った。私は反射的に"Thank you very much"と答え少し安堵した。しかしこれは間違っていた。

それからみなさまのご指摘が始まった。SAM副所長は最初彼らしく細かい言葉遣いを"Why don't you use ...."と言い出した。実はこのとき"Why don't you..."という言い方はしらなかったので「?なんでこういう風にしないだ?と詰問されているのだろうか?」と多少不安になったが周りの様子をみてそうでもない、と判断してとりあえず素直に「はいはい」と答えていた。

そのうちPastrickが本質的な問題を指摘しだした。この発表内容は今回のシステムスタディに何の関係があるのだ?元はと言えば、今回のシステムスタディに関係のある社内研究を無料で説明するから、是非注文ください。というのがふれこみだったはずだ。そこで関係ないことを説明してどうする?というまことにもっともな問題である。

実のところ「こんなんでいいんだろうか?」という疑問は私の心の中にずーっと巣くっていたのである。しかし「上司が」あとは英語だな、と言っていたので「まあいいや」と安心していたのである。

そのうちSAM副所長は「大風呂敷をひろげすぎなんだよ」とかわけのわからないことを言ってPastrickに同調しだした。そして結局私の発表内容は大幅に見直しとなった。

次はBig Eの番であるが、私は別室に行って考えを作り直していた。そこへI 社員が入ってきて「みんないい気なもんだよな。好き放題言って」と慰めてくれた。

私は私でぶつぶつ思いながらも貴重な教訓を得ることになった。人の言うことを真に受けるというのは愚かなことである、というやつである。上司が「あとは英語だな」と言ったからと言って、内容に問題がないと保証してくれたわけではないのである。そして今回もたかが資料の改訂でこの貴重な経験が学べるのであれば、破格の安さという奴である。

そうは言ってもアイディアはまとまらない。なんとかして、本来全然関係ない社内の研究の内容をなんとか今やっている仕事に関係があるように見せなくてはならない。正直言ってこの仕事に私の上司を当てにするわけにはいかない。つまっていたところに隣の課の課長がやってきてヒントをくれた。そして私はその線に沿って泡くって資料を作り直した。

私がわたわたと作業をしていると、Big E社員が入ってきた。彼のやっていた研究は今回のスタディに関係が深い物だったので、彼は大丈夫だろうと思ったら、何と彼のほうも大幅改定になったそうである。そして二人そろって資料を大幅に改定して本番に臨むことになった。

 

ハワイまでの飛行機の中は明るい雰囲気に満ちた物だった。後に胃潰瘍で死亡することになる某管理職の前の席にはとっても巨大な女性がつまっていた。規程で我々はエコノミーの座席に乗っていて、確かにビジネスより前後の間隔は狭いのだが、その女性は自分の座席の背もたれの前面と前の座席の背もたれの後面の間の空間を全て使用していた。

I先輩は隣の席に座った米国人に「これがハワイで仕事なんだけど、誰もハワイに仕事に行くっていっても信じてくれないんだ」と言ったところ"Of course!"という返事が返ってきたそうである。

それもそのはずで、そのOf Course!と言ったおじさんは知らなかったことだろうが、このときのハワイ滞在は、審査一日に対して、およそ一週間もあり、

1日目:準備打ち合わせその1

2日目:準備打ち合わせその2

3日目:本番

4日目:Wrap Up :まとめその1(参加企業全社出席)

5日目:Warp Up :まとめその2(日本の企業だけ出席。米国企業が参加するとうるさいから)

ってな感じになっていた。特に5日目の目的は明白である。

とはいったもののこちらは本番が終わるまでとてもゆっくりとハワイを観光するような気分ではない。おまけに私たちの発表はその日の最後に行われるのである。

 

さていよいよ当日である。朝からばたばたとしていてあまり落ち着くどころではない。「配付資料を一部訂正するように」とSAM副所長が指摘をしだし、それの張り替えなどをやっていたのである。私の近くにはアロハシャツを着たおじさんが座った。彼が(多分)「ハワイはいいところだろう?」とか言うので"Wonderful"と答えた。これは私の偽らざる心境だったのだが。

さて客先へのプレゼンテーションが始まった。我々の仲間ではI社員がトップバッターである。I社員は以前Pastrickにプレゼンテーションの仕方を教わっただけあって見事な態度であり、おまけに冗談までまじえて満場の笑いをとっていた。

さてそんなこんなで粛々と審査は進んでいった。前にヨーロッパで同様のスタディをやったときはもめにもめた、と聞いていたので多少びびっていたのだが、質問は出る物のあまり極端なものもなし、ほっと一安心という感じである。しかしどこにでもうるさい人はいる物で、一人結構あちこちに文句を付けている人がいることに気がついた。もちろんこちらは何を言っているかはわからないので、そのおじさんが熱心なのかうっとうしい奴なのかまではわからない。そして午前の部は終了しランチタイムとなった。

 

本来ならばここでほっと一息のはずなのだが、こちらはそれどころではない。審査が順調に進むと言うことはこちらの発表の順番がだんだんと近付いてくるということなのである。昼飯を食っている時に私はすでにがちがちに緊張していた。何かレストランというか食堂のようなところで食べたことは覚えているのだが、何を食べたかさっぱり覚えていない。そこに既に自分の発表が終わってほっとしたI社員がよってきてこのように言った。

「今聞いたら、今日客先の出席者は大坪君の担当分野の専門家ばかりだってさ」

私はその瞬間目の前が真っ暗になるような気がした。ただでさえ英語での発表、内輪の練習でのぼろくそな評価と来てプレッシャを感じているところに相手がみんなその道の専門家だって?

多分私は泣き顔をしていたのだろう。I社員は「いや。冗談だよ」と言った。うーむI社員のユーモアのセンスはすばらしい物だ。今から考えればこれは後輩社員の緊張をときほぐそう、というI社員の思いやりだったのだろう。しかし当時の私はとてもそんな事を考えるまでの余裕がなかった。こういう場所でそういう過激な冗談は私のような情けない人間にはやめてもらいたいものだ。

さて午後も審査はしゅくしゅくと進行し、私が担当している範囲の発表も無事にすんだ。発表したのは日本側の担当会社の方である。発表直前になって、図の一枚に関して「この線が違うんじゃないか。もし質問があったら大坪さん答えてくださいよ」と私のところに来たほど彼も発表に一生懸命だったのであろう。彼の心配していたような質問もなく、、、実のところ質問があったかどうかも覚えていない。というわけで私の仕事の半分はめでたく終了した。ところが問題は残った半分の方なのである。

周りは喜びの雰囲気につつまれた。非常な緊張と共に初めての顧客相手のプレゼンは見事に成功したのである。そして二人を除いては「まあ試験研究の発表で多少どじっても」と思っていただろう。しかし私とBig Eに関してはそんなことをいっていらるような状況ではなかた。

"Who is first ?"と言われて私は立ち上がった。緊張に関して言えば最悪なのは立ち上がる前の瞬間である。

原稿は手にしていたが、一度もよまなかった。前日の晩ホテルの部屋で練習したとおりにしゃべった。一度間違えて "Sorry"と言ってしまい、すぐに"Correction"と言い直した。前に内輪で練習したときに「大坪はポインタを持つ手と反対の手がひらひら動いているが、あれはなんなんだ」とSAM副所長から「大変細かい」ご指導をいただいていたので、その点にも注意していた。

第3者から見ればとても短い時間だったかもしれない。しかし私にとってそのプレゼンの間は長いとか短いとか考えている余裕がなかった。途中2-3質問があったが、これはI先輩が訳してくれた。

終わった後に客先の上役が"Thank you"と言って講評を述べた。彼が指摘した点は「関係ない試験研究をむりやり関係があるようにみせかけた」ところに関するものだった。これは相手の理解力をほめるべきか、私の「無理矢理のつなぎ」に関する想像力不足を指摘すべきところか今ひとつはっきりしない。

しかしとにかく私はとてつもなくご機嫌になった。これでようやくここ数週間の悩みの種が解消したことになるのである。私は次のBig E社員の発表のスライド係りに回った。だから彼の発表がどういうものだったかさっぱり覚えていない。

さて、彼の発表もめでたく終了となり、今度こそ全体は喜びの雰囲気に包まれた。私がわたわたと後かたづけをしていると、誰かに話しかけられた。見ると先ほどまで本番の審査でいろいろうるさく質問をしていたおじさんである。

何か文句をつけられるか?と思って相手の言葉を聞いてみれば"I enjoyed listening, Very good job"とかなんとか言ってくれた。その時の自分の喜びの感情をうまく書き表すことはできない。しかしこれはそこまでの数年の会社生活の中でのハイライトの一つだったことだけは間違いない。私は"Thank you very much"と言って笑顔で相手の手を握った。

駐車場のあたりで皆で話している最中、Pastrickが寄ってきた、そしてBig Eに向かって

”E-san, Good Job" といい、その後そういえばお前もいたな、という感じで"Otsubo-san, good Job too"と言った。その後「いやー、Huntsvilleで聞いたときにはどうしようかと思ったけどね」と付け加えた。

その日会社に向かってその日の報告が送られた。それは勝報と言ってもいいような調子だった。「客先からExcellentという評価を得た」と全般について述べれられていた。もっともこの"Excellent"という言葉については、誰が聞いたか最後まで定かではなく、「実は誰も聞いていないんじゃないか」という意見も有力だったが。またこれもまたうれしかったことだが「当社の若手社員のプレゼンテーションに賞賛の声が寄せられた」と付け加えられていた。言うまでもなく当時私はまだ「若手社員」だったのである。

さてその日の夕食後、翌日のWrap Up Meetingの準備があった。I社員は「俺は誰もほめてくれない」とぶつぶつ文句を言っていた。実際喜びだの感嘆だのいうのは全て相対的なものである。我々は「大丈夫だろうか」という事前の周りの不安が大きかっただけに、皆の感嘆も大きかった。プレゼンそのものから言えば、I社員のほうが遙かに見事だったことは明白なのだが。

さて翌日のWrap Upは、日本企業だけならば「いやー。昨日はうまくいきましたね」と喜びのムードで終わるところだろうが、そうはいかなかった。揉めたあげく、隣の課の課長はHutsvilleに逆戻りとなったのである。しかし私は少なくともご機嫌だった。

名古屋空港に戻ってきたのは記録に寄れば1989年6月16日である。後に胃潰瘍で死亡することになる主務は「かあちゃんが迎えに来ている」とご機嫌だった。私もご機嫌だった。

 

今から考えればこのときのプレゼンは私の英語力向上の上で、一つの大きなステップになったと思う。大勢の米人の前でまがりなりにも20分しゃべった、というのが自信になったのが一つ。もう一つは、プレゼンの原稿を考えたり、何度も練習して暗記することで、自分が使える語彙や言い回しが確実に増えたことだ。よく言われることだが、日常生活に必要な語彙や言い回しはそうたくさん数があるわけではない。このプレゼンの練習のおかげで、基本的なパターンをいくつか反射的にでるようになるまで訓練したことは確かに有益であった。

 

さて、それから次の渡米までの一月私は大変ご機嫌にアクティブにくらしていた。私の体調はとても機嫌に左右される。そして私がこの時期ご機嫌だったことは間違いのない事実だった。私は今回のシステムスタディが結構性に合っていることを発見していた。新しい、不定形のシステムに取り組むことは苦痛も大きいが、創造力を発揮する、という私がいた職場では非常に得難いチャンスを得ることにもなる。ひたすら「標準」を学ぶ最初の年の図面書きにくらべれたとってもご機嫌だ。英語は非常にきびしかったし、これからも道は長いだろうが、なんとか前進している気がしてきた。そして来年には2年の留学が待っていた。

思えばおそらくそれから2ヶ月の間、私にとって太陽は南の空に高くさしかかったところだったのだろう。そして太陽が高みにさしかかったときが下り坂の始まりであることを思い知らされるのはそう遠いことではなかった。

次の章

 


注釈

人の言うことを真に受けるというのは愚かなことである:トピック一覧)この悟りは大変貴重であるが、よく忘れてしまうという欠点を持つ。しかし「誰それがいいと言いました。私はそうは思いませんでしたが」というみっともない言い訳だけはしたくないものだ。自分の納得がいくような仕事をするべきで、それがひどい評価を受ければ、それは自分の責任である。本文に戻る

 

ハワイまでの飛行機:トピック一覧)今のところこれが唯一のハワイ訪問である。公私を問わず。本文に戻る

 

ゆっくりとハワイを観光:とは書いた物の本当はいろいろとやっていたのである。まず最初にティファニーに買い物に行った。I社員の奥様への贈り物である。I社員はわざわざ「ティファニー以外の袋にしてくれ」と言って「なんで?みんなこの袋がほしいのよ」と店員に不思議な顔をされていた。ティファニーはありふれてませんか?と聞くと「いや妻もそういってるけど、どうせやれば絶対喜ぶんだから」と言っていた。本文に戻る

 

アクティブにくらしていた:YZ姉妹に示される、姉妹との出会いから「キャンプ」までの間がこの時期に当たる。本文に戻る