題名:何故英語をしゃべらざるを得なくなったか

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日付:1998/5/22


4章:飛び込んできた仕事

さて1987年の残りと、1988年の前半私は比較的平和に過ごした。「比較的」ということは、多少の困難はあったのである。(あたりまえだが)

親愛なる私の上司は、渡米の前に我々に英訳の宿題を残していった。新しい分野に進出するおいうので、それの関連資料を訳するように言い残していたのである。しかしその「関連資料」は単語か短いフレーズが並ぶプレゼン用の資料だったので、今から考えればバックグランドの知識無しには絶対訳せない代物だったのだが。しかし上司が理屈を理解すると誰が期待できよう。

彼が帰ってくる前日の朝礼の模様をこれまた私はよく覚えている。当時No2の人間が入れ替わりに出張にでかけていたので、朝礼を仕切っていたのは私だった。

「みなさん。この一月半。楽しかったですね。明日はお帰りになります」

さてこの一月半は全く平和にすごしすぎて、英訳は終わっていなかったのである。上司は帰ってくると「英訳はどうなった!」との賜った。泡を食って夜の9時までみんなの尻をたたきながら英訳にとりかかっていると、彼は自分が疲れたのか「いや。できないならできないで、ちゃんと報告しろといいたかっただけだよ」と言い残して帰っていった。

結局この英訳資料は、3度くらい上司につっかえされたあげく、お蔵入りとなった。そして何の役にも立たなかった。

そんなことを繰り返しながら日々は比較的平穏のうちに過ぎていった。

その平穏な日々に変化が訪れたのは1988年のある日だったと思う。(正確にいつだったか思い出せないが5月くらいではないか)当社が慣れ親しんだ防衛庁からではなく、米国の某省庁からシステムスタディの受注をする可能性がでてきたころからである。プロジェクトの名称は「腰巻き小物入れ」。今でこそ「米国の仕事」というと反射的に顔をしかめるようになったが、当時は「Wao!」とExcitingな予感を感じたことを覚えている。最近になって気がついことだが、私は「新しい」製品、「新しい」事業という言葉にめっぽう弱いようだ。その結果がどうなったかは後述する。

 

さてまず「心の準備をしなさい」とばかりにプロジェクトの概要説明をうけたものの、実質的な作業はないままだった。そのうち「提案書を作るので、米国出張があるかもしれない。パスポートはもっているか?」と聞かれた。泡を食ったが、考えてみれば卒業旅行に行ったときにとったのは、今は無くなってしまった「一回限り有効」のパスポートであった。「ありまへん」と言ったら「さっさと取れ」と言われた。

あらあら、なんだかわからないけど手続きは、、などと思っているうちに「あれはとりあえず要らない」と言われ、一度話はここで没になった。

 

さてそうこうしているうちに提案書はいつのまにか提出され、幸か不幸か私がつとめていた会社がPrime contractorになったチームと岐阜にある同業他社が所属しているチームがお仕事を勝ち取ることになった。そして1988年の11月から一年の予定で研究スタートとなったのである。

この仕事ではおよそ二月ごとに米国で会議が行われ、客先への説明を行うこととなっていた。そしてそのために約3週間から4週間出張するのである。そして今度は「パスポートを取れ」という命令が下って、それが当分撤回される見込みはなかった。

パスポートの申請は、何故かしらねど別の会社の人がずーっと担当して、旅券センターにも必ずついてくることとなった。そしてその人が「若い女性」であった私は「いや。あなたみたいな美人に担当してもらえて幸せです」とかなんとか本当に言っていたのである。私は口は軽いが嘘は言わない。その女性は本当にきれいだったのである。最終的に「合コンしませんか」などと誘ったが「うちは年寄りが多いですから」とあっさりかわされた。

さて合コンは得られなかったがとりあえずパスポートが手に入った。会社で申請したパスポートだから、写真には会社の社員証の写真をそのまま焼き増しして使ってある。灰色の作業服を着た通称「世界一恥ずかしいパスポート」である。

さてそのパスポートを使用する機会は、年号が変わった1989年の3月にやってきた。第一回目の出張は担当範囲に直接関係が無い、ということで見送られたが、第二回には出席することとなったのである。

この最初の渡米に前後していくつかの出来事があった。まず晴天の霹靂とも言うべき米国留学が決まった。本社での面接はこの出張の3日前に行われた。

このとき提出した「私のTOEICの点数」は中級英語合宿の最終日に受けた時のスコア、640点であった。この点数でも「点数が低いからだめだと思うよ」とさんざん文句を言われたのだが、入社当時の580では何がどう間違ってもチャンスはなかっただろう。あの点数がこんなところで効いてくるとは。。。

そしてそれまで「英語力がある人が留学生になるんだ」などという迷信を信じていた私は、自分自身でこの「迷信」が誤りであることを証明してしまったことになる。誰がどう考えてもTOEIC640点が「英語力十分」とは言えないのである。そしていやがおうでも英語力を「飛躍的」に向上させる必要性に直面してしまったことに気がついた。もはや「無理なく自分のペースで」などと悠長な事を言っていられる場合ではないのだ。

 

次には新しい担当分野で、防衛庁向けにも(大変小規模ながら)同じような仕事を担当したことである。思えばこの分野は今まで私がいた部署の誰もが取り組んだことのない分野だった。そして最初の出張の直前に客先向けに結果の報告をすることになっていた。

報告の結果は「けちょんけちょん」だった。およそ定量的な見当ができず、定性的な文言ばかりが並んだ報告書は「何だこれは」のような評価を得た。後に留学中にいろいろ調べて「この分野で”定量的な評価”が難しい」というのは米国でも大きな問題としてとらえられている」ということを知ったのはそれから2年後である。「後の祭り」とはこういう事を言うのであろう。

「もうちょっとなんとかしてください」と言われて、報告書は大幅に改定になった。落ち着いて物を考える時間がなかったのは幸いだったかもしれない。もし腰を据えて考えていたら、この分野での自分の能力に深刻な疑問を抱いていたかもしれない。しかし幸か不幸かそんなことを言っている暇がなかった。仕事の事情に加えて、独身寮を引っ越すという難題も抱えていたからである。家具を持たないことで知られる私でも引っ越すとなればそれなりの準備が必要なのである。

出張の前日、私は夜遅くまで一人で報告書の訂正、出張の準備に追われ、自分で設定したタイムリミットになったところで、上司の机の上に書きかけの報告書と以下のような置き手紙を残してオフィスを去った。

「まことに遺憾ながら、これ以上働くと、出張準備、寮の引っ越しが(睡眠時間を0としたとしても)物理的に不可能になります。申し訳ありませんが、あとはよろしくお願いします」

 

さてこの出張に出発する際の私を客観的に見るとおよそ以下のような状況であった。この新しい担当分に取り組み始めたのが前年の12月だったから、この分野の経験はおよそ「4ヶ月」といったところ。おまけに最初の仕事は「けっちょんけちょん」の評価を受けた。それに対して、仕事でおつきあいする人々は提案書に添付された履歴書によれば「最低でもその道経験10年」のベテランであり、豊富な経験と実績を有している。(少なくとも履歴書はそう言っていた)

おまけに(あたりまえのことだが)会議は全て英語で行われる。仕事の相手となる「ベテラン達」は英語の達人である(あたりまえか)こちらは今までの経緯で明白な通り、英語のコミュニケーション能力にかけては"He is BASIC"に毛が生えたようなものである。

おまけにここ数日私が何よりも愛している睡眠時間は大幅に削られていた。

冷静に見ればとんでもない状況なのだが、それでも私は結構意欲と希望に燃えていた。向こう見ずと言えば向こう見ず、若いと言えば若いと言えるかもしれない。

出発は1989年3月18日だった。日記によれば朝両親が車で送ってくれたらしい。会社の規定でビジネスクラスに乗ることができ「まあ。卒業旅行で乗ったEconomyに比べると、なーんて広いんだんべ」と感心したり、American Airlineの推定年齢30歳〜300歳の空中飯盛人に驚いたりしながら、なんとか米国Alabama州Huntsvilleにたどりついた。とはいっても先輩社員の後を「なんとかはぐれないように」とついていっただけなのであるが。

 空港からレンタカーでモーテルに向かう時には既に夜になっていた。その夜景の中にいきなり実物大のスペースシャトルのレプリカが浮き上がったのには腰を抜かしそうになった。(HuntsvilleにはNASAのスペースキャンプがあるのである)時間が遅かったので、レストランは既に閉まっている。しょうがないからみんなであやしげなファーストフード屋に入って晩飯を買った。

なんとかモーテルの一室におさまり、荷物を片づけ。。さてちょっと飲み物でもと思って外に出ようとして考えた。夜に外にでていいものだろうか?いきなり後ろから銃で撃たれたりしないだろうか?

これも渡米は初めて、という後輩社員であるところのBig Eとともに、おそるおそる自動販売機にたどり着いてコーラか何かを買った。部屋に戻ってさてご飯だと思ってたら一つ問題に気がついた。メインディッシュはフライドチキンで、それにご飯が少量添えられているが、フォークもスプーンも何もないのである。

正直言って私は疲れていた。もうこの際どうでもよい。まずい冷えたご飯(あるいはその加工食品)を手づかみで食べながら私は前途にぼんやりとした不安を抱いていた。

 

「こんなことでやっていけるのだろうか」

 

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注釈

腰巻き小物入れ:この言葉を聞いて、分かる人は分かるだろう。本文に戻る

 

私は口は軽いが嘘は言わない:(トピック一覧)どうもこの信条は信じてもらえないようだ。本文に戻る

 

米国留学:トピック一覧)この詳しい経緯は「留学気づき事項」に記載してある。本文に戻る

 

空中飯盛人:トピック一覧)トピック一覧を経由して他の文章で、私が何故この言葉を使うようになったか、どのような意味を持っているかが参照できる。本文に戻る

 

Huntsvilleにたどりついた:このときの経路は、名古屋-成田-ダラス-ハンツビルである。ダラスでは数時間に及ぶ待ち時間がある。本文に戻る

 

モーテル:ここで言っているモーテルというのは本来の意味での「モーターホテル」のモーテルである。何故日本でモーテルというとHな意味を持つようになってしまったのか定かではないが。出張前に先輩に「どんなところに泊まるんですか?」と聞いたら「モーテルだよ」といわれ、「おおっ」と泡を食ったものだったが。本文に戻る