題名:巡り巡って
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「真夏」という言葉以外思い浮かばない青空と気温と直射日光の下、私は京急久里浜駅から歩いて数分の横須賀総合高校で呆然としている。なぜこんなところにいるのか聞かないでほしい。とにかく来てしまったのだ。
しかしこの天候。もうおとなしく駅に向い、冷房のきいた電車内に避難すべきではないか。理性はそう考えているが足は反対方向に向かう。せっかくここまで来たのだからあそこにいかなければ。今思い返せば既に頭が朦朧としていたのではなかろうか。
理由はともかく私はとぼとぼと歩き続ける。一度スマホの画面を見れば、目的地はそう遠くないはずだ。しかしこの天候下でそれが果たして賢明な選択だろうか?などと考えている間もなく目的地が見えてきた。
これが本日の目的地全景。大きな石碑がペリー上陸記念碑、その右手にペリー記念館がある。ちなみにこの状態から後ろを向くとこんな光景が広がる。
空はどこまでも青く、日差しは強烈で気温はとにかく高い。しかし建物内部にすぐはいってしまうには惜しいほど面白い情報がいくつもある。
ほとんどの場合、ペリーの物語は黒船が出現したところから始まる。しかしそもそもアメリカからどうやって日本まで到達したのか。これを見ると、まず大西洋を横断し、アフリカ沿岸を通りインド洋からシンガポールを経由したことがわかる。出発地点は異なるが、途中からはバルチック艦隊と同じ航路。日本に到達するだけでも8ヶ月にわたる航海である。
裏面はほぼ英語。この石碑が建てられたのは明治時代だがその後辿った変遷については後述する。
といったところでペリー記念館に向かう。
入り口にあるのがこの写真。?と思わないだろうか。ちょっとたるんだおっさん。ペリーってこんな人だっけ?ちなみにこの横にはペリーの胸像もあり、そちらはとても凛々しい顔をしている。この辺から歴史の教科書に載っている「開国を迫ったペリー」だけではなく、ペリーとはどのような人間だったのかと興味を持ち始める。
ペリー記念館は入場無料である。とてもうれしい。一階には4隻の黒船が久里浜沖に停泊している様子が模型で再現されている。それはそれとしてその横にある説明ではペリー来航の七年前にドッドル提督が2隻の軍艦を率いて来ていたのだそうな。通商を求めたが拒否されたため、彼の名前は教科書に載っていない。他にもいろいろな国が来ていたが、ではなぜペリーだけが教科書に載っているのか。つまるところ最初に条約を結ばせたから。名前が残るのは最初の人だけ。私の年代の人間だって、アポロ12号以降誰が月に行ったかなんて知らない。
ではドッドルとペリーは何が違ったのか。当時は
「幕府こんなこと言ってますが、どうしましょうか」
と本国にお伺いを立てることなどできぬ。現場の提督があれこれ判断しなければ。というわけでペリーの交渉力というか押しが強かったかつ巧妙だったということなのだろうか。2階にはこんな説明がある。
「ペリーの日本に対する態度は依然来航したアメリカ艦隊の場合とは全く異なっていました。特派大使として、交渉の権限をもった外交官僚以外と会うことを拒否したのです。確固たる態度と自信。それが日本の鎖国の扉を開ける名誉をペリーに与えたのです」
しかし実際にはこの数行には収まらないさまざまな物語があったに違いない。
展示の横にはペリー艦隊の来航略年譜が掲示されている。3/31に条約を締結し、北海道にも行った後6/28に日本を離れ香港に向かっている。その後の記述が
「9/11ペリー提督単身帰国 (疲れと持病<リューマチ>悪化のため)」
となっている。ペリーが死去したのはそれから四年後のこと。日本の教科書に載る名誉は得たが、やはり過酷な任務だったのだろうか。
彼はどんな人間でどんな生涯をおくったのだろう、などと考えながら2階への階段をのぼる。2階もさほど広くはないが、脅威深い展示がある。
ペリーが家族に送った手紙。娘に細やかにあれこれ書いて送っている。喧嘩するんじゃないよ、と。ここに描かれているのはまさしく一人の父親としてのペリー。子供は10人いるが、ペリーより早くなくなってしまった子供が3人もいる。父親としての悲しみはいかほどのものだっただろうか。
などとしんみりしていると足元にあるこれに気が付く。
床に双六があり、これをたどっていくと文字通りペリーの航海の足跡を辿れるようになっている。子供が小さいうちだったら「目が回る忙しさ。3回まわる」を実際にやって盛り上がることができたんだろうか。
そして1階に降りる階段の近くにはこんな展示が。
戦争が終わり、日米は再び同盟国となった。そしてペリー来航の百年は盛大に祝われることとなった。最後の行の「市民が参加しての黒船音頭」が素敵ではないか。その様子を伝えるのは数枚の白黒写真だけだが、想像するだに楽しい。
とはいえ、このように常に日米関係が平穏だったわけではない。その十二年前には日本軍は真珠湾を奇襲していたのだ。鬼畜米英。というわけで一階にはこんな展示がある。(ひっそりとだが)
鬼畜米英が叫ばれていた頃、記念碑を粉砕し、道路に敷こうとしたのだそうな。いつの時代もそういう思考回路を持った人はいるのだろうが、昭和二十年2月にはとうとう本当に引き倒されてしまったとのこと。
そんなに憎ければ、頭上を飛び回るB29を「残虐に」撃墜すればいいものを、それができないので物言わぬ石碑にあたるのか。確証はないが当時もそう考えた人はいたのではないか。
その後釜となる「護国精神振起の碑」は木柱のまま終戦を迎えることになる。新たに日本の支配者となった米軍の機嫌を損ねてはまずいと誰かが考えたのだろう。11月には再建されたとのこと。これも想像だが、石碑破壊を主導した人間は
「いつ米軍から呼び出しがあるか」
と戦々恐々としたのだろうか。それとも「来るなら来い」と堂々としていたのだろうか。
といったところでペリー博物館の見学はおしまい。こじんまりとした博物館だが、いろいろなことを考えさせられた。歴史の教科書で顔は知っているつもりの人にもさまざまな人間としての物語がある。
では帰ろうと熱気と日差しの中に歩き出す。