日付:2007/9/4
いっ たん(比較的)太い道にでると北上する。だいたいこっち、としか見当をつけていないから看板がなければ迷ってしまうところだが、幸いにもそこそこ看板が存 在している。指し示された方にと進んでいくと、いきなり目的地が現れる。かなりの急カーブをきり反対側にある何かの施設に車を止める。さて問題です。駐車場 はどこにあるでしょう。「無料駐車場。はいって左」とか書いてあるので、それがある付近の道を進む。するとなんだか墓地のようなところには いってしまった。そして確かに墓地の駐車場にはついたのだが、どうも目的とするところは違うようである。あたりをしばらく歩いてみたが、墓地の掃除をして いるとおぼしき女性に不審者を観るような目つき(どんな目つきだ、といわれても答えられないのだが)でみられただけである。観念してもう一度戻る。
戻ったはいいのだが、結局駐車場はわからない。しょうがないから近所の空き地に(そんな場所があるところがありがたいところだ)止める。さて、というわけでなにやら観音像があるところに行ってみる。台座の横に書いてある文字を観たとき私は仰天した。
なんとあの鳥居観音がこんなところにある。書かれている文字を読めばなんでも鳥居観音を訪れたのが機縁となり複製をつくらせてもらったとかなんとか。しかしまさか青森まできてこの観音を目にするとは思わなかった。などと驚愕している場合ではない。そこから少し戻りちゃんとした入り口をくぐる。その後すぐ気がつく。なんとここを車で入ればちゃんと駐車場があったのだ。無駄な事をした、、とは思わない。ここに直接来たら鳥居観音(複製)には気がつかなかっただろうから。
というわけでさっそく目の前にある地蔵堂に入る。
誰かがお経を唱えて貰っている。前から見たところはさして変わっていないようだが、お経を唱えているエリアの横から後ろに回ると光景は一変する。まず向かって左手はこんな様子地蔵と写真、それと無くなった方が生前着ていた着物だろうか。大量に存在している。さらに後ろに回る。様々な物がつり下げられている。後ろには膨大な量の地蔵が並んでいる。それぞれの地蔵が身につけているものは亡くなった人の為に備えられたものだろうか。
自分が父親になってからというもの、こういう物を観ると供えた人の気持ちを想像してしまう。「みんな仲良く遊んでください」と書かれたボールにはどんな気持ちが込められているのだろうか。
そして上には大量の着物がぶら下げられている。何かのユニフォームとおぼしきものもつり下げられている。観 ているうちに気分は沈んでくる。ふと気がつくと私のすぐ後に入ってきた家族連れが何かを供えている。スナック菓子のたぐいにヨーグルトなど。10代〜20 代とおぼしき男性とその両親だろうか。あまり観るのも悪いと思うがちらちらと横目で様子を観察する。彼らが立ち去った後にはスナック菓子だけが残されて いた。おそらく供えるだけで持ち帰るものもあるのだろう。
彼らの様子を見ているとそれはいつもの墓参りといった趣だ。亡くなったのが誰で、それがいつのことかは分からない。しかし生きている人間は日々前に進まなくてはならない。家族のものと思える笑い声も聞こえる。弔う気持ちは変わらなくても。いったんそこを出ると今度は右手にある人形堂にはいる。入ってすぐは普通のお堂と思うのだが、その後ろには横にとても広い空間が広がっている。そして供えられているのは夫婦の人形の大群だ。こ の人形は「にんぎょーのきゅーげつ」の作品らしい。なんというか本来は髷を結っている人形の髪を無理矢理おろした、という感じがする。場合によっては男 性、女性だけの人形が飾られているものもある。そこに一様に添えられているのはおそらくは無くなった人の名前と写真、それに飲み物の缶である。珍寺大道場の文章を読めば、「未婚の男女を供養し適齢期になれば神様が配偶者を見つけて結び付けてくれるという伝説に乗っ取って、幼くして亡くなった子供達に親達が夫婦人形を奉納し、仮想結婚式をあげてやるのだ」とのこと。理由はわからないが、どちらがなくっなった場合であっても人形には男女の名前が添えられている。ということはどうにかして相手の名前を推測するということなのだろうか。軍服とおぼしきものを来た人の写真もあれば、カラオケで熱唱している男性の写真もある。観ているうちに珍寺大道場の言葉が何度も何度も頭をよぎる。「これらの人形を見ていると、子をなくした親の想いがひしひしと伝わってきて、思わず手を合わせずにはいられなくなる。それは故人に対してと言うよりも、むしろその親に対して。」
しばらくその空間にいた後外に出る。車に乗ると次の目的地に出発だ。