日付:1998/2/5
1997年8月9日10時、利尻岳の最後のつめの、ざらざらと崩れる火山礫の斜面を登っていた。
間もなく日本百名山の完登の時が迫っているのだ。
しかし、こんなクライマックスなのに、ちっとも気分が高揚していないことを、私は感じていた。
この気持ちは、この一週間ほど、づっと続いて感じているものだった。
私の山歴をよく知っている、ごく一部の人以外は、百名山完登の報告を聞いても「なんだ、未だ全部は登っていなかったの」と言うに違いないほど、私は長い月日、日本百名山を意識し口に出して来ていた。
あるとき、つい酔った挙句に「会社を辞めたら、2週間ほど休暇をとって、一挙に片付ける」と放言し、仲間から辞めたらもう「休暇」じゃないでしょうと交ぜかえされた話を、自分からも、よく披露していたぐらいであった。
思えば会社づとめの仕事の関係から、山に割ける時間は限られていた。そのため、アプローチに日数がかかり、かつ挑戦可能な期間が短い北海道の山々を、最後まで登り残してしまっていたのだった。そんな中で、仕事もしながら、じりじりと百山に迫ってゆく、そんな人生の全体を楽しんでいたのだと思う。
今回の山行計画は、間もなく会社を離れる予定ははあったが、まだ在職中に立てたもの
であった。
その頃、ある中部電力OBグループが8月6日から北海道に入り、利尻にも行くという話を小耳にはさんでいた。それで、彼らと合流する前に、斜利岳、トムラウシ山、後方羊蹄山を済ませ、札幌で合流したうえ利尻を百番目にしようと目論だ。
今から思えばそのスケジュールには、トムラウシ用に予備日を一日とったものの、基本的には会社のスケジュールを立てるのと同じ発想で、詰め込めるだけ詰め込んで作ってしまってあった。
さて、今年の夏の北海道の天気は、雨ばかりで、まったくひどかった。こんど生まれ替わったら北海道に渡り、傘屋を始めようかと、戯れに思ったほど雨ばかりであった。民宿の親父に「北海道って、いつもこんなに天気が悪いの」とこぼすと「あの日本海で足踏みした台風がいけないんだ」と半ば肯定されてしまった。
層雲峡から大雪に入った2日目、白雲岳避難小屋からひさご沼までは、本来、コマクサと池塘が散在する地上の楽園と言われる道である。その折角の楽園を、絶え間ない雨と西風の中に、這松のトンネルでずぶ濡れとなり、一日中腰を下ろすこともなく、とぼとぼと歩き続ける羽目とあいなった。
そして、ひさご沼避難小屋では,超満員の狭いスペースで、濡れた衣類と寝袋を体温で乾かしながら一夜を明かした。
夏の北海道の夜明けは早い。誰からとなく、がやがやと4時に起き出し、炊事が始まった。私は簡単に朝食のパンをかじり、荷物をパックし、4時半にだれよりも早く、1人で冷たい雨の中に踏み出し、九十八番目になるトムラウシ山に向かった。
トムラウシからの下りで、同じ小屋に泊まっていた中年のひとりに追いつかれ、あとは極端に無口な彼と東大雪山荘まで相前後しながら下って行った。彼はトムラウシは巻き道をとり、頂上は踏まなかったと言っていた。この日の雨と強風そして気温の低下を思えば、普通なら、予備日に当てるのが常識の日であったろう。(腕時計の温度計の最低記録は15°C,体温を補正すれば、実際はもっと低かったはず)事実、この日ひさご沼から下ったのは、われわれ2人だけであった。
前々からの私の人生設計では、退職後こそ、山には天気の良い日だけ登り、そうでない日は、宿でゆっくりする筈であった。それなのになぜこんなに雨、風の中を歩くことになってしまったのか。その理由を2、3日、しつこく考え続けた。
まず天候予報からは、眼の前の雨が、一日待ったら、ましになるのではないかという希望的な期待は無理であった。
また、前日の行程をこなした実績からすれば、今日の行動も可能な筈と判断した。可能なことなら、なぜ実行しないのかというのが、長年の企業での生活の理論であった。
つらつら考えた末、予備日を使わなかったのは、小屋で無為の一日を過ごすのが不可能な、職業病ともいうべき自分自身の因業な性格にあるに違いないと思い至った。
そしてもっと根底には、行動を行き当たりばったりでなく、予定表で計画しようとする態度が悪いのだとの結論に落ち着いた。
でもその時はまだ、あの冷たい雨の中でのトムラウシ山行が、過去を引きずった、私の最後のゴリ押し登山だったと書くつもりであった。
それなのに、一体なんということだろう、3日後の99番目の後方羊蹄山が、またもや、雨に加えて独立峰特有の強風で、まるで飛行機の翼の上に立ってでもいるような気がする、まさに地獄ともいうべき山行になってしまった。
その上ご丁寧に、冒頭にあげた、いま登っている利尻までも、雨と風である。先程、3人連れが「上は荒れているので、引き返したんです」と下りて行った。でも、元気いっぱい追い越していった若者たちが、まだ下りて来ないから、なんとか頂上を踏めるのではないか、そんな思いの頂上直下だったのである。
10時32分、ついに利尻岳頂上に立った。
振り返れば、百名山の最初の山は磐梯山、昭和27年8月、22才、大学3年の時、東北電力の豊実発電所に実習に行っていて、休日に友達と登ったのだった。
深田さんの百名山に出会ったのは、やはり山好きの三菱電機の課長さんのお話からだった。昭和47年、東京出張の帰途、新幹線の中でのことだった。
思えば本当に長い長い、百名山とのおつきあいの年月だった。
訛のあるタクシーの運転手に、東北の田舎の町の名前を言ったら、彼がたまたまその町の出身で、その後ある日乗り合わせたとき、こちらが忘れていたのに、あの時のお客さんですねと向こうから声を掛けられたことがあった。
クラブの女性との会話でも、話題の乏しい私にとって、百名山のお陰で日本の各地を知っていることが、話の口火を切るのに、どんなに役に立ったことか。
深田さん、本当に有難うございました。
仕事に縛られ、山の数がこなせないと言っていた、仕事とともに山への思いを持っていた日々が、じつは活きていることの証査であった。
いま、社会を支えていた側から、支えられる側に移り、父親が仕事を離れた頃の心情がしきりに思われるのである。
仕事とともに、百名山の課題もなくしてしまった、そんな人生の終幕近い、言いようのない淋しさを噛み締めながら過ごした、最果ての旅であった。