日付:2000/8/15
(5/2〜5/6)♡仙台へ名古屋から仙台までの旅は、夜行バス「青葉号」です。
夜行バスは、夜行列車のようにボツボツと止まらないで、スムースに走ってくれるのが魅力の一つなのです。しかしこの夜は夢の中で、何だか頻繁に動いたり止まったりしているようだと感じていました。
朝になってからアナウンスで、道路が混んだため、東北道を諦めて常磐道へ迂回し、遅れを最小限に止めたことを知りました。
なにせゴールデン・ウイークなのですから、トイレ休憩のためにレスト・エリアに入ろうとしても、車が溢れていて全然入れませんでした。
今回の春の東北旅行は、山登りがなくて、主目的は遺跡巡りでした。
メンバーは丸山さんと宮脇(兄)さん、宮脇さんが殆ど全行程を運転して下さいました。
・雪解水囃す一夜の宿なりし
♡東北の遺跡で
遺跡の話は、極力、簡単に済ませる積もりですから、ちょっとお付き合い下さい。
今度訪ねた場所は、次の通りです。(時代順、年代は概略)
上高森遺跡 先土器時代 60万年前 仙台の北 1.5時間
高森遺跡 先土器時代 50万年前 仙台の北 1,5時間
富沢遺跡 先土器時代 2万年前 仙台市内
三内丸山遺跡 縄文後期 5500年前 青森市内
小牧野遺跡 縄文後期 4000年前 青森市内
大湯遺跡 縄文後期 4000年前 十和田湖の南 1時間
伊勢堂岱遺跡 縄文後期 4000年前 能代市の東 1時間
亀が岡遺跡 縄文晩期 2300年前 弘前の北 1時間
各遺跡の特徴を簡単に述べておきます。
上高森遺跡では1996年に、60万年前の地層から人間が手を加えた組石が発見され、今までの常識を越えた古さでセンセーションを呼びました。
振り返れば、日本に旧石器時代にも人が住んでいた証拠が見つかったのは、1946年のことでした。
アマチュア考古学者の相沢忠洋氏が行商の途中、群馬県岩宿で道路の切り通しに、先土器時代の石器が顔を出しているのを発見したのでした。
これが日本の先土器時代の幕開けです。敗戦の翌年、人々が食べるのに汲々としていた時期に、こんな直接生活に必要でもない考古学に情熱を燃やしていた青年がいたことは、実に感激的であります。
そのあとでも、つい最近まで、日本では人類の痕跡は数万年前までしか辿れないものとされていたのです。それがこの上高森遺跡の発見により、一桁も遡ることになったのです。
ついでながら、この上高森遺跡に続いて、北海道でも30万年前の遺跡が発見されました。
富沢遺跡は仙台市内のビル街の中にあります。
ここでは最終氷河期に、森の中を苦労しながらさまよった旧石器人の痕跡が発見されたのです。
木の根っこが網の目のように絡み合った平らな湿地に、彼等が一夜を過ごした焚き火の跡が見つかったのです。氷河期には寒くて食料を得るのが難しく、生きてゆくのが容易ではありませんでした。焚き火の周りに落ちていた折れた石器は、当人にとっては明日からの生死にかかわる重大事だったのでしょう。
そんな旧石器人の苦労を刻み込んだ2万年前の地面が、スケートリンクほどの広さに掘り出され、薬品で固定され、ドームで守られていました。
三内丸山遺跡は、最近脚光を浴びています。広い駐車場に車が溢れ、全国から見物人が押し掛けていました。
青森市内のこの丘に、前例のない大規模な縄文遺跡が発見されたので、今までの考古学の常識が、すっかりひっくり返されてしまいました。
長い間、縄文時代は狩猟生活で、作物の栽培は弥生時代になってからだとされていました。ところがここ三内丸山遺跡の発掘と、最近の遺伝子技術の進歩のお陰で、ここの住人たちは既に栗の木を意識的に栽培していたことが分かりました。
また、死者たちは大人と子供と分けて、計画的に整然と葬られています。
復元された長さ32mもある大きな縦穴住宅に入ってみましたが、今でもこんな広い、区のコミュニケーション・センターはないのではないかと思いました。
大湯遺跡は、1930年代初頭に環状列石、別名ストーン・サークルが発見されたので有名であります。
その後、ストーン・サークルは関東から北海道まで広い範囲で、続々と見つかっています。
ここ大湯遺跡では40基以上の石組が、2カ所で、それぞれ直径46mと42mの円環状に配置されているのです。それらの石は、ちょっと離れた川原から、石英閃緑岩という緑がかった綺麗なものだけを選んで運ばれています。
何のためにストーン・サークルが造られたかについては、お祭り、お墓の両説がありました。1952年になって、個々の石組みの下の穴を残存脂肪分析法で調べたところ、高等動物の脂肪であると出たそうで、今はお墓であることが分かっています。
これらの直接訪れた遺跡自体も興味深いのですが、そのほかにも付属の資料館を見たり、各種の資料を貰ったりしました。そうするとその地域全体について、どの時代の遺跡がどの程度あるかが分かってくるのです。
今回、東北地方の遺跡巡りをしてきての感想は、4000〜5000年前には相当沢山の人が住んでいたのに、その後何千年もの間、何故すっかり遺跡が減ってしまったのかしらという点であります。
東北地方の縄文人たちは、一時期、ほとんど死に絶えてしまったのでしょうか。そして細々と弥生、古墳の時代を生き延び、平安時代に至って大和朝廷が進攻する頃になって再び、蝦夷として記録に現れるようになったのでしょうか。
私は、遺跡が示している裏にある、人々の生活に大変興味があるのです。
東北地区の古代人は、気候が変わって生活し難くなったのでしょうか。
それとも進んだ生産技術が入ってきて、別の適所に移ったのでしょうか。
あるいは出エジプト記のように宗教上の事情から他所へ移ったのでしょうか。
人類の文明がはるかに進んだ江戸末期の1780年になっても、天候不順で、いわゆる天明の大飢饉が起こり数十万人の餓死、病死者を出しています。とくに生産力の低かった東北地方では、目を覆うばかりの惨状だったといいます。
ヨーロッパが経験したペストという悪疫も、人口を3分の1も減らしたのでした。
弘前の北にある有名な亀が岡遺跡も訪ねました。ここが栄えた縄文晩期と言えばもう稲作技術を取り入れた弥生時代に近い時代です。縄文人たちもそろそろ、広々とした水田に近い低いここの丘に移って来たのかとも思いました。
ついでながら亀が岡遺跡は、ユーモラスな遮光眼鏡土偶で有名です。
地元では、その土偶の人形が、道端でシートベルトを締めましょうという交通安全標識に一役買っていました。
古代の人口を直接知る方法はありませんが、その手段の一助として、遺跡の数を人口の関数と考えてみてはどうかと思うのです。日本中を県別に、時代別に遺跡の数を整理したらどんなことになるのでしょうか。
多分、データの収集と整理は、地方地方の博物館などで、もう既に終わっているのでしょう。
しかし、大小、千差万別の遺跡を一緒くたにして、人口の指標にしようなどとは、専門の学者の方にとっては恥ずかしくて、口に出来ないことなのでありましょう。
私は素人ですから、気楽にものを言っているのです。
素人としては、古気候や生産技術、宗教などと関連づけて、人口増減のストーリーが出来れば、古代史は大層面白かろうと思うのです。
・縄文の土偶の春を叫ぶ口
♡弘前城の桜
私の母は弘前の出身です。
その母は、弘前城の桜の盛りは4月30日だと、口癖のように言っています。
今回、私たちは弘前には5月4日に着きました。今年は気温が低く、お城の桜は、ちょうどぴったりの見頃でした。
夜桜を見にゆきました。
弘前城の桜は種類が多く,中にはこれでも桜かしらと疑うほど巨大な株もあります。
いずれにせよ、その見事さは言葉で現せるものではありません。だからここでは、触れません。ご希望の方には、ビデオでお目に掛けたいと思います。
もっともビデオだって、とても本物には及びません。ただ、そのビデオの中で私が「素敵ですね、素敵ですね」と、気恥ずかしいほど連発しているのが、ご愛敬です。
夜桜を見てあまりに感激したので、翌朝早くもう一度訪ね、お城の石垣の上に立って四方を眺めました。桜と雲の間に、ちらっと姿を見せた岩木山は雪を纏っていて、またまた素敵でした。
弘前城のお堀端で、消防団が観閲式をしていました。
観閲式を花見時に開くなんて、粋な計らいではありませんか。
「〇〇小隊、全員〇名揃いました」など、キビキビ動いていました。
しかし、やはりグループのあいだに程度の差はありました。
こちらはなにせ、爺いが3人です。気が入っているグループに「この班は、日頃、隊長がちゃんと酒を飲ませてるな」など言いたい放題を言って歩きました。
一列横隊が「右へならへ」という号令を掛けていました。お香典の額を決めるときなどに使われ、いまはもう死語になりかかっているこの「右へならへ」という言葉を、懐かしく聞きました。
・花に酔うこの夜に英語津軽弁
♡鰺ヶ沢へ
弘前から西へ、日本海の漁港、鰺ヶ沢へと向かいました。
私の祖父は陸軍少将でした。戦後は蟄居しておりました。そんなとき,鰺ヶ沢町から町長になって欲しいという申し出でをいただいたのでした。
敗戦の混乱の中で、日本の北部はソ連に占領されると言う噂が流れたことがありました。もしそうなったら、もう両親に会えないと思って、私の母は名古屋からはるばる鰺ヶ沢を訪ねました。
その頃、日本中の鉄道の運転は、まったく行き当たりばったりでした。
冬だったのに、窓ガラスの破れた列車で、母は、ともかくも行ったのだそうです。土地の人に教えられて、寒さを凌ぎに、背中に新聞紙を入れたとのことでした。そんな思い出のある鰺ヶ沢なのです。
弘前から鰺ヶ沢へ行く道には、岩木山の北を廻るのと、南を廻るのとがあります。
今回、私たちは、岩木神社と岳温泉を経由する南側の道をとりました。
岩木山を西に回り込んでから、日本海に降りる長い道を走りました。
気がつくと、小さな丸っこい山が沢山目につきました。
言うまでもなく、岩木山は津軽富士と呼ばれ、長く裾を引いた端正な独立峰の火山であります。だから、これら山裾の小さな土地のこぶは、岩木山の寄生火山に間違いないでしょう。今、大騒ぎをしている有珠山麓の隆起と同じ現象であります。
岩木山は、遠い昔に、長い長い年月に渡り、何回も噴火を繰り返したのでしょう。その際の産物であるこれらの小山が、いまは人の口にも上らずに、忘れられた存在として静まり返っているのです。
さてこのたび、ただ黙々と静まり返っている岩木山の裾野の小火山群を見ながら走っていて、私はこんなことを考えていたのです。
有珠山は活発な活火山です。今回の噴火が2000年、前回が1977年、そしてその前が1944年でした。
1944年の噴火については、第二次大戦末期でしたから、完全に報道禁止でした。
火山学者は1人も来ていません。
小学校しか出ていない、地元の郵便局長であった三松正夫さんが、手作りの測量器具で、昭和新山が盛り上がる様子をスケッチに残しているだけでありました。
国有鉄道胆振線の線路が、土地の隆起で運転できなくなりました。この鉄道の奧に鉄山があったので、停止することは許されませんでした。
大勢の鉄道工夫や地元住民が投入され、日夜を通じて線路の下を掘り下げては、運転を続けたのでした。しかしとうとう際限なく隆起して手に負えなくなると、迂回線まで作ったのです。
その頃は国を挙げて戦争をしていたのです。戦争では、弾が飛んで来る中を進まなければなりません。危険な場所に縄を張って立入禁止にしていては、戦争はできないのです。
前々回の有珠山の噴火に際して行われた報道と較べれば、今回は恐らく数億倍にのぼる文字、映像、時間が投入されていることでしょう。
今回の有珠山の噴火は、自然現象そのものとしては、セントヘレンズ、レーニア山、ピナツボ山などの大噴火と較べればもちろんのこと、有珠山の過去の噴火と比べても、大人しい、ほんの小さなものでありました。
21世紀を目前にした今日、詳細な報道によって世間の関心を集め、十分な対策を講じてゆくプラスの面は、昔とは較べられないほど大きくなっています。
避難生活から始まって仮設住宅建設にいたる個人や社会が負う負担だって、GDPが500兆円弱に達した現在のわが国では、相対的に僅かなものになっていることに気がつきます。
有珠山の噴火は、一生のうちに2〜3回経験することは珍しくないのです。
次回はどんな噴火が起こって、どんな報道がなされ、どんな対策が取られるのでしょうか。
ひょっとすると、恒久的有事避難用の第二虻田町など造られるかも知れません。
それについては大変興味があるのですが、その機会に出会うかどうか自分の年齢では微妙と言っては、不遜の謗りを受けるでしょうね。
・雪の壁解くる際より蕗の薹
♡象潟
象潟へは夜遅く着いたので、翌朝早く見物に行きました。
1689年、芭蕉が奧の細道の旅でこの地を訪れ「おもかげ松島にかよいて、また異なり、松島は笑うが如く、象潟はうらむがごとし」と記し「象潟や雨に西施がねぶのはな」という句を残しているので有名であります。
西施という女性は、中国の越の国に紀元前502年に生まれた、中国四大美女の一人なのだそうです。
越が呉の国に敗れたときに、西施は国の策略として呉王に献上されました。
そして呉王は政治をほったらかして、この美女にうつつを抜かしてしまいました。その結果、後年、越が呉を打ち負かして,前回の敗戦の恥を雪ぐことができたということになっています。
それゆえに西施は、愛国精神をそなえた天下一の美女として讃えられたのでした。
しかし、なんといっても悲劇の美女であります。32才で亡くなりました。
さて、句の中の「ねぶのはな」は合歓(ねむ)の花であります。
あの日本の花にしては何となくバタくさい、繊細なピンク色の花が雨に打たれている姿に、芭蕉は西施の悲しい影を重ねたのでしょう。
芭蕉が訪れてから百年余過ぎた1804年、鳥海山が大噴火を起こしました。また、大地震が象潟を襲い、約3m隆起し、それまでは松島のように海に浮かんでいた島々が、今見るように、一面の水田の中に点々と分布する小山になってしまったのです。
ここには坩満寺という、芭蕉が訪れた古いお寺があります。ところがこのお寺は、地盤が隆起した割りには、高い位置にはないのです。
例の癖で、隆起する前の地形を想像しながら、この辺りの様子をためつすがめつ眺めました。
一面に水田が広がり一見平らなようですが、よく見ればゆるく馬の背になっていました。
昔はこの辺りは、南から湾が入り込んでいて、坩満寺は湾を隔てた半島にあったようです。そして地震の時の地盤変化は、この湾の部分が大きく隆起したとすれば話が合うようです。なにも地盤が平行的に隆起したと考える必要はないはずです。
目の果てには雪を頂いた鳥海山がどっしり座っていました。最近の噴火は1974年のことでした。
長い年月のあいだに、山は数え切れない回数の噴火、地震を繰り返したことでしょう。その蓄積が、今の地形になっているのです。そしてそれは、これからも変化し続けてゆくことでしょう。
こんなにして、このみちのくの春の日に、人の命と思考レンジの短さを、改めて噛み締めていました。
・象潟を青田の海に浮かべたり
♡八郎潟
今までは列車の車窓から眺めているだけだった八郎潟を、今度の旅では自分の足で踏むことができました。
220平方キロといいますから、伊勢湾の常滑と四日市を結んだ線の北側ぐらいの大きさになります。人口3254人の大潟村が、干拓事業で誕生したのです。
干拓事業の着工は1957年、竣工は1988年です。米不足の時代に着工したものが、完工時には米剰り、休耕田の時代になってしまっていました。
この目算外れについては、いろいろ議論はあります。
もし私が30年昔に、経済の今の状況や、ここに至るまでの経過を正確に見通して土地か株の売買をしていたら、大金持ちになっていたことでしょう。
平均的に、人間はそんな先のことは分からないのですから、過去の過ちを責めても仕方のないことです。
せいぜい、他人を非難していると自分が偉くなったように錯覚して、気分が良くなるぐらいのことだけでしよう。
見通しを誤ったことを反省することが、まったく将来の参考にならないという訳ではありません。しかしそれを参考にしたとき、それで将来、間違いがなくなると信じられる人がいれば、その人はかなりの楽観主義者と評されるに違いありません。
ともかく、こんど行ってみましたら、八郎潟干拓地へは車が一杯押し掛け、道路は渋滞していました。
家族連れで遊びに来ている人が多いようでした。遊覧設備もあるようでしたし、なんといっても道路の周りに咲き誇る菜の花が見事でした。辺り一面、菜の花の香りが匂い立っていました。こんなに菜の花に匂いがあると感じたのは始めてでした。土地がある、広いということは素晴らしいと思いました。
勿論ここは、緑いっぱいの一見理想的な自然環境に見えますが、本当は自然ではなくて、土地も樹木も花も総て人工物であります。でも、広い道路の路肩に駐車して、沢山の人が楽しんでいたのも、また疑いのない事実であります。
この干拓地の中で、日本で一番標高の低い山「大潟富士」へ登りました。
高さが僅か4,5mの土盛りが造ってあります。日本人の誰もが心に抱いている理想的な富士山の格好に造ってあります。
「みんな、いつも、この山の頂上の高さに、日本海の水面が広がっていることを忘れてはならない」という町長さんのお言葉が書かれていました。つまり大潟富士頂上の三角点の標高が海抜0mなのです。
干拓といえば、オランダは国土の70パーセントが干拓で造られた土地なのだそうです。干拓は10世紀から始められたとあります。現在の国の人口は1700万人と聞きます。
干拓先進国のオランダでは、新しい干拓部分は複式干拓という方法が使われています。これは堤防を二重に巡らして、間を淡水の貯水池にしているのだそうです。こうすれば海水の浸透を防ぐことができますし、また、ここに貯水池を造らないと、どのみち干ばつを防ぐために、どこかの川にダムを造らなくてはならないのですから。
八郎潟でも、この新しい工法が採られていました。
・菜の花の直線道路干拓地
♡酒田米
北に鳥海山、そして南に白山、西を日本海に囲まれ、中央に最上川が流れる庄内平野は、米どころとして有名です。
酒田市内の川岸に、山居(さんきょ)倉庫とよばれる米の貯蔵倉庫が建っているのを見にゆきました。
一棟に2万俵も入る大きな倉庫です。その切妻屋根の土蔵造りの倉庫が11棟、ずらりと一列に並んでいるのはまさに壮観です。
当然、観光客が押し掛けています。
倉庫の中に保管している米の温度を低く保つのに、昔は自然に頼るよりなかったのです。そのために、太陽からの熱を遮るように屋根を二重にし、また西側に大きなケヤキ並木を造ってあります。
いまは、壁や屋根を断熱し、エアコンで最適な温度と湿度を保っています。れっきとしたJAの現役の貯蔵庫なのです。
外観は歴史的建造物ですが、よく見ると、ベルト・コンベーヤーが動いており、またちゃんと移動用の屋根があって、雨の日でもトラックに荷が積み込めるようになっています。
一番端の倉庫が、資料室になっています。
この資料室でたとえば、60キロもある米俵の重さを体験できます。昔はこれを5俵、300キロも担いだ女の人があったのだそうです。
1622年、ここへ殿様として土地入りした酒井忠勝公が「庄内は天恵の沃野、まさにこれを以て国を立つべき楽土なり」と号令をかけられたのが、米どころになるきっかけになったとあちこちに書かれています。
土地の人たちが心を合わせて、土地の繁栄を米作に賭けて、土地の改良、品種の向上など、真剣に取り組んだ様子が物語られています。
倉には、藩の米を貯蔵したのでした。入庫米に対して米券が発行されました。これは江戸時代の藩券の一種ですが、ここ山居倉庫のものは、大変に信用が高く現金同様に扱われたそうです。
そこにあった説明の中で私が一番感銘を受けたのは、現代になってからのことですが、生産から輸送、買い入れまでの過程で、権力が自然に集中し勝ちな立場の品質検査、買い入れ部門の職員に、公正を守るよう強く戒めている点でした。
現実には、この地方の商業、回漕業、倉庫業が本間家に集中し、巨富を得て、日本一の地主と言われたそうです。
「本間様には及びもないが、せめてなりたや殿様に」と殿様以上に羨まれ、囃されたほどなのです。
世の中、現実はなかなか理想的にはゆかないものです。
また、それだからこそなおのこと、理想の旗を高々と掲げ、規律を強く求めることが必要なのだろうと思います。
そのことを民主主義体制の下で求めては、あまりに書生論、楽観論と言われてしまうのでしょうか。
・村中の小川溢れて春や今
♡落ち穂拾い
旅行中我々は、道すがら見られるものは貪欲に、残さず見て歩いたつもりです。
それらのうち、この紀行で触れなかった場所の名前だけ、並べておきましょう。
小坂町康楽館、黒又山、十和田湖、酸ヶ湯、八甲田山遭難碑、下北半島福岡城、十三湊、金木町太宰治館、千畳敷、十二湖、有耶無耶の関跡、湯殿山
今年の春は気温が低く、酸ヶ湯と湯殿山の道では、まだ数メートルの雪の壁が残っていました。
湯殿山では好天に恵まれました。抜けるような青空と、眩しい雪の山を眺めながら、しきりと胸がうずくのでした。
春の雪山は、私の一番好きな山でした。グループ山行のテントの中での団らんは、さながら天国だったように思い出されるのです。
湯殿山で、目の前に見える、あの雪の山へは行きたいし、また方法を考えれば行けるなと思っていたのでした。
この紀行文を書いているうちに、テレビが96才のスキーヤー、三浦さんを放映していました。
体力自体は、まだ私の方が多少残っていると言っても叱られないでしょう。
でも番組の中で三浦さんが、去年は1時間で登れたところが今年は1時間半かかったとか、高山の薄い空気に慎重に、慎重に体を慣らすとか言っておられるのには身につまされました。
とくに、骨折しやしないかと警戒しておられるのには、まさに図星をさされた感がありました。
素直に、他人に迷惑をかけたくないのならば、私も、もうリタイアするべき時が来ていると理性は教えるのです。
そんなとき、良い過去をいっぱい持っていて、沢山楽しい思い出があるだけ幸せじゃないかとも、自分の心に言い聞かせるのです。
でも、年をとるって悲しいな、嫌だなという本音も付け加えて、不正直な男と言われるまいと格好をつけさせていただきます。
・目瞑れば春の雪山そして友